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木内幸男氏オンライン記帳 12/4

木曜日, 12月 3rd, 2020

取手市名誉市民 木内幸男氏を追悼する記帳はオンラインで(12月4日から)
令和2年12月4日(金曜日)から令和2年12月11日(金曜日)まで

各日午前8時30分から午後5時15分まで

 

通夜のニュース 20201203

茨城新聞 いばらき春秋

記者としてかなわなかったことの一つに「木内幸男番」がある

高校野球取材の応援に駆り出され、常総学院の試合に関わった時だけ、「ぶら下がり」や「囲み」ができた。木内さんは、稚拙な問いにもサービス精神たっぷりに答えてくださり、本当に勉強になった

よりお世話になったのは、木内さんが監督を退任し、こちらがスポーツ報道の責任者に就いてからだ。当時、茨城新聞社には木内さんの映像がなかった。2015年にロングインタビューを企画し、土浦市営球場で収録させていただいた

記事は2回に分けて掲載。社の宝と言える映像は、ユーチューブで今も視聴できる

16年に常総学院がセンバツに出場した際には、甲子園に行かずテレビで見るという木内さんに観戦記をお願いした。快諾してくださったが、「原稿料」は固辞された。「茨城新聞は仲間だから、取材を受けるのは義務。お礼なんていい。社長が俺のことを見掛けたら、声を掛けてくれればいいんだ」と笑った。好物の甘味を差し入れさせていただいた

先月24日に亡くなった木内さんの告別式が、きょう取手市内で行われる。木内さんの大いなる「遺産」を、常総学院はじめ高校野球関係者に連綿と継承し発展させていってもらいたい。(仁)

スポニチ

肺がんで11月24日に死去した元常総学院監督の木内幸男氏(享年89)の通夜が2日、茨城県取手市の「やすらぎ苑」で営まれた。取手二、常総学院の監督として春夏通算3度甲子園で優勝し、甲子園通算40勝の名将。雨が降る中で参列した約2400人が故人との別れを惜しむ中、常総学院時代の教え子で来季はDeNA2軍監督となる仁志敏久氏(49)は「木内イズム」の継承を誓った。3日に同所で葬儀・告別式が行われる。
祭壇は野球のダイヤモンドをかたどって花が飾られ、棺の上には故人が愛用したグラウンドコートと3つの甲子園優勝メダル。そしてサインボールが一つ置かれていた。巨人時代に仁志氏が贈った思い出の品だ。故人が大切にしていたもので、3日に棺に入れられて一緒に天国へ持って行くという。

遺影を見つめ、静かに手を合わせた仁志氏は言った。「思い出はたくさんあり過ぎて何か一つを思い出すことはできない。元気に大きな声でしゃべって歩き回っている姿が焼き付いてます…」。87年に常総学院に入学し、すぐに素質を認められた。1年春からレギュラーで夏の甲子園で準優勝。まさに木内野球の申し子だ。試合中は常にベンチで隣に座って監督の言葉に耳を傾け、3年になると監督よりも先にチームへ指示を出すようになったという。「木内さんがいなかったら今の自分はない。親以上の存在です」と懐かしむように話した。

来季からはDeNAの2軍監督に就任し、恩師と同じ指導者の道を歩む。故人が入院する前日の10月28日に87年準優勝時のエースで常総学院・島田直也監督と取手市の自宅を訪れ、就任を報告。それが最後の機会だと分かっていたようで声がほとんど出せない状態でも、喜んでいる様子だったという。「元気だったらどんな話をしてくれたんでしょうね」。でも、故人の教えは心に焼き付いている。

「(木内監督の教えは)考えて野球をすること。状況を考え、状況に応じた答えを出しなさい、と。プレー前に考えて準備する」。育成、チーム力の底上げを担う2軍監督として、その教えを着実に生かす。この日、厳しくも優しかった故人を思い、意を強くした。

遺影の写真は優勝した01年センバツ当時のもの。甲子園で野球ができる喜びにあふれた表情で、教え子の門出にほほ笑みかけていた。(秋村 誠人)

《戒名に「常光」と「摂取」》木内氏の戒名は「常光院摂取球誉幸叡清居士(じょうこういんせっしゅきゅうよこうえいせいこじ)」となった。「常光」は常総学院で「常に光り輝いていた」、「摂取」は取手二で「選手を集め、新しいものを取り入れた」、「球誉」は「野球で茨城県民栄誉賞、取手市名誉市民など名誉を得た」という意味。「叡」には「考え深い」の意があり、故人の球跡をたどり表すものとなった。

◆主な参列者 中島彰一(日本製鉄鹿島監督)、仁志敏久(DeNA2軍監督)、島田直也(常総学院監督)、小菅勲(土浦日大監督)、松沼雅之(解説者、茨城トヨペット投手コーチ)、金子誠(日本ハム野手総合コーチ)、前田三夫(帝京監督)、内田靖人(楽天) =順不同、敬称略

毎日新聞

仁志さん「死ぬまで原点に」 2400人が別れ惜しむ 常総学院・木内元監督通夜

11月24日に89歳で亡くなった取手二高や常総学院の元監督で、甲子園で3度の優勝経験がある木内幸男さんの通夜が2日、茨城県取手市内で営まれ、球界関係者や両校のOBら約2400人が木内さんとの別れを惜しんだ。

木内さんのひつぎの上には、常総学院の監督時代に着ていたジャンパーや、甲子園優勝のメダルが置かれた。

1987年夏の甲子園で同校で準優勝し、来季からDeNA2軍監督を務める仁志敏久さん(49)は、「現役を引退して指導者という立場になってから思い返したのは木内さんのこと。死ぬまで原点になると思う」と話した。同校から3季連続で甲子園に出場した日本ハム野手総合コーチの金子誠さん(45)は、「亡くなる2日前にノックを受ける夢を見た。『元気かな』と思った矢先で、言葉が出ない」と話した

茨城新聞

「天国でも野球を」

高校野球監督として取手二と常総学院を計3回甲子園優勝に導き、89歳で先月死去した木内幸男さんの通夜が2日、取手市内の斎場で執り行われた。プロ野球DeNAの仁志敏久2軍監督ら教え子や野球関係者が数多く参列し、偉大な功績をたたえながら名将をしのんだ。告別式は3日正午から、同所で行う。

同市市之代のやすらぎ苑会場入り口付近には、両校のユニホームと、1984年夏の取手二全国制覇の優勝盾が置かれた。祭壇は野球グラウンドを模して飾られ、常総学院が2001年春と03年夏を制した際の優勝旗レプリカも添えられた。夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」が流れ、参列者が焼香し別れを告げた。

常総学院OBの仁志さんは「特に会うでもなく連絡するでもなかったが、いつも気にしながら野球をしていた。寂しいとか悲しいというより、不思議な感じがしている」と心境を述べた。

同じく母校の監督を務める島田直也さんは、来春の甲子園出場が濃厚なことを踏まえ「采配を見てもらいたかった」と残念がった。03年優勝時の主将で現在は部長を務める松林康徳さんは「熱を持って子どもたちに接する姿勢を受け継ぎたい」と誓った。

取手二優勝メンバーも顔をそろえた。常総学院前監督の佐々木力さんは「残念。これまでも大病を克服していたので…。天国でも野球をするのではないか」と語った。土浦日大監督の小菅勲さんは「子どもの目線まで下げて野球を教えてくれた指導者だった」と振り返った。社会人・日本製鉄鹿島監督の中島彰一さんは「監督のおかげで今、監督ができている」と感謝した。

木内さんと幾度も名勝負を繰り広げた霞ケ浦監督の高橋祐二さんは「大会のたびにお話を聞き、一球の大切さを学んだ」と悼んだ。

 

サンスポ

木内幸男さん通夜に2400人が別れ 仁志敏久氏「常識で考える野球を学んだ」

高校野球の監督として茨城の取手二高、常総学院高を計3度の甲子園大会優勝に導き、11月24日に肺がんのため89歳で亡くなった木内幸男さんの通夜が2日、茨城県取手市の斎場で営まれ、雨が降る中、教え子ら約2400人の参列者が別れを告げた。

入り口には優勝盾やユニホームが飾られ、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」が流された。常総学院高OBで来季DeNA2軍監督に就く仁志敏久さん(49)は「形式ではなく常識で考える野球を学んだ」と振り返り「プレーの前に考え準備する。それを教えるのはこれからも変わらない」と語った。

産経新聞

高校野球で茨城県の取手二と常総学院両校の監督として甲子園で春夏計3度の優勝を果たし、11月24日に肺がんのため89歳で死去した木内幸男さんの通夜が2日、取手市市之代のやすらぎ苑でしめやかに営まれた。高校球界に多大な足跡を残した名将の旅立ちを悲しむような氷雨が降る中、市民や教え子ら約2400人が木内さんとの別れを惜しんだ。

常総学院が昭和62年夏の甲子園で準優勝したときのエースで、プロでも横浜(現DeNA)などで活躍。今夏、母校の監督に就任した島田直也さん(50)は「常総に恥はかかせられない。頑張ります」と霊前で奮闘を誓った。

チームは今秋の関東大会で準優勝し、来春予定される選抜大会への出場が有力視される。「こういうケースではどうすればいいのかといったことを聞きたかった」と恩師の死を惜しんだ。

島田さんと同じ準優勝メンバーで今秋、DeNAの2軍監督に就任した仁志敏久さん(49)は10月下旬、木内さんの入院前日に本人と対面。「だいぶやせて、会話も苦しそうだった」と回想する。「木内さんと出会わなければ今の自分はいない。親以上の存在だった」としみじみ。

取手二の優勝メンバーで、社会人・日本製鉄鹿島監督の中島彰一さん(54)は「普通の高校生だった自分たちがあんな舞台(甲子園)に立てたのは木内さんのおかげ」と感謝。同じく取手二で優勝し、現在は土浦日大監督の小菅勲さんは54歳を迎えた誕生日が偶然、木内さんの死去した翌日だった。「もう一度生まれ変われるように」と気持ちを新たにチームの指導に当たっていくという。

 

 

言わぬ損より言った損

木曜日, 7月 9th, 2020

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うむうむ 頷ける

毎週木曜日掲載の吉永みち子さんの「言わぬ損より言った損」

 

YOASOBI 夜に駆ける

水曜日, 5月 20th, 2020

YOASOBI 巣ごもりブレーク!デビュー曲「夜に駆ける」3大主要デジタルチャートで1位独占

スポニチ 2020年5月20日

外出自粛期間中に人気が急上昇している音楽ユニットがいる。昨年12月にインディーズデビューした男女2人組「YOASOBI」。デビュー曲「夜に駆ける」が19日、サブスクリプション(定額聴き放題)の主要3サービスのランキングで初めて1位を独占した。デビュー半年の新人が一気に今年の音楽界の主役に躍り出た。
女性ボーカルのikura(19)と、顔を明かさない男性プロデューサーのAyase(年齢非公表)の2人組。デビュー後はメディアに一切登場せず謎めいた存在だったが、ikuraが15日午後10時に人気YouTubeチャンネル「THE HOME TAKE」に出演。「夜のみんなの1人の時間に少しでも寄り添えたら」と初々しく意気込み、一発撮りでデビュー曲「夜に駆ける」を熱唱した。

動画のコメント欄は「聴き心地最高」「歌の安定感が凄い」「鳥肌止まらん」と絶賛の嵐。動画の総再生回数は19日午後11時20分までの4日間あまりで400万回。1日平均100万回は、ピコ太郎の手洗い動画「PPAP―2020―」の公開当初と同様のハイペース。この広がりが各種デジタルチャートも押し上げた。

2人の最大の特徴は、他人の小説を原作として歌と映像を作ること。小説投稿サイト「monogatary.com」にアップされた作品を対象に、Ayaseが楽曲を制作する。「夜に駆ける」の原作は、星野舞夜さんの小説「タナトスの誘惑」。ミュージックビデオ(MV)は別のクリエーターが手掛けた。

「夜に駆ける」は自殺願望を持つ「君」と、君に一目ぼれした「僕」が織りなすストーリー。YouTubeで公開されているMVの総再生回数は1300万回超。小説と歌、MVがそれぞれ独立した作品として親しまれ、外出自粛期間中ということもあり、相乗効果を生んでいる。

「巣ごもり中の時間を使って作品を行き来しながら楽しむ人が若年層に増えた」(音楽関係者)と、10代を中心に人気が広がった。実際に「夜に駆ける」は10代の利用者が多い「LINEミュージック」で4月度月間ランキング1位を記録。今月に入って20代以上の利用者が多いアップルミュージックとスポティファイにも人気が飛び火。この日、3つの主要デジタルチャートで1位を独占した。
ikuraは「今後もさまざまな試みをしていく中で、一人でも多くの人の夜に寄り添う歌を歌っていきたいです」と抱負。コロナ禍に突如現れた新人から目が離せない。

YOASOBI(ヨアソビ)ボーカルのikuraと、音声合成ソフト「ボーカロイド」を使って楽曲制作をしているプロデューサーのAyaseの2人組。「小説を音楽にする」をコンセプトに昨年12月にデビュー。「夜に駆ける」のほか、1月に「あの夢をなぞって」、今月11日に「ハルジオン」と3曲を配信リリースしている。

≪一発撮り配信「THE HOME TAKE」 過去最多配信はLiSAの「紅蓮華」≫「THE HOME TAKE」では、アーティストが自宅やプライベートスタジオで一発撮りで歌う姿を配信している。昨年11月に開設された「THE FIRST TAKE」がコロナ禍で5月1日から“ステイホーム版”となった。

「音楽とは、何か。一発撮りで、向き合う」がテーマ。真実性を追求するため、ミスしても映像の修正ができないことが特徴だ。チャンネル登録者は98万人と100万人に迫っている。
これまで45テークが公開され、最も再生されているのが人気アニメ「鬼滅の刃」の主題歌「紅蓮華」を歌ったLiSA(32)の4000万回超。YOASOBIは配信と同時に3万人に視聴され、歴代最多記録をマークした。


透き通ったきれいな声です🎤

ボウリング場 感染対策万全で再出発 スポニチ

日曜日, 5月 17th, 2020

スポニチ 20200517

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フジ取手ボウルは、5月15日に23日ぶりに営業再開

・・・

人々の行動変容に合わせて、模索しながらの営業が当面続く。

新型コロナウイルス対策ダッシュボード

火曜日, 4月 7th, 2020

スポニチ 20200707

新型コロナウイルス対策ダッシュボード

病床数確認サイトが話題に!
感染者数や病床使用率が一目で確認可能!!

都道府県別に病床数と患者数を表示した「新型コロナウイルス対策ダッシュボード」(4月4日現在、東京のみ6日午前11時現在)
都道府県ごとの感染者や病床の数、使用率などが一目で分かる「新型コロナウイルス対策ダッシュボード」が、インターネット上で話題になっている。
開発者は福井県鯖江市のソフトウエア開発企業「jig.jp」の福野泰介氏で、東京都の感染症対策サイト立ち上げにも携わった。厚生労働省や各自治体の発表データから患者数などの数値を抽出し一覧にまとめた。空き病床が少ない自治体ほど色が濃くなる仕様で、都市部ほど足りない状況が一目瞭然。病床数の増加など、反映が遅れることもあるが「各地の事情が分かりやすい」と注目されている。

COVID-19JAPAN

茨城県 新型コロナウイルス感染症対策本部発表資料

緊急事態宣言

名将・木内氏、“孫弟子”巨人ドラ3菊田にエール

日曜日, 12月 8th, 2019

名将・木内氏、“孫弟子”巨人ドラ3菊田にエール「仁志の後継者として…3年は我慢を」

スポニチ 20191208

 甲子園通算40勝の名将、常総学院前監督の木内幸男氏(88)を冠した「スポニチ後援第7回木内幸男旗少年野球大会」は7日、雨天のため茨城県龍ケ崎市のたつのこスタジアムで開会式のみ行い、予定された1、2回戦20試合はあす8日に順延。取手二グラウンドで小学6年生対象の野球教室を開催した。
 取手二OBらによる野球教室には巨人のドラフト3位・菊田(常総学院)も参加。雨の中で子どもたちを熱心に指導し、木内氏とも対面した。直接の指導を受けたことはなく「歴史を築いた偉大な名監督」と遠い存在のように話したが、中学時代に所属した取手ファイトクラブ・下田和彦監督、常総学院・佐々木力監督はともに木内氏が率いた取手二の84年夏の甲子園優勝メンバー。いわば木内氏の“孫弟子”に当たる。

 現在は筋力アップと柔軟性を重点に「ケガしない体作り」に取り組む菊田。「1軍に上がることを意識してやっていきたい。(目指す長距離砲の)岡本選手から学べるものが多いと思います」と早期1軍へ強い意欲をのぞかせた。そんな“孫弟子”に、木内氏は「(常総学院OBで元巨人の)仁志の後継者として、3年は我慢して頑張ってほしい。目先にとらわれず、自分を変えず、いかにいい下積みをするかが重要」とエールを送った。

命守る行動 地獄への入口

金曜日, 11月 1st, 2019

スポーツニッポン 20191031

吉永みち子 言わぬ損より言った損

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山からの津波

日曜日, 10月 20th, 2019

心に残る記事より・・・

浸水被害の岩手・山田町「山からの津波だった」…東日本大震災後の整備が裏目に
スポーツニッポン 2019年10月20日

東日本を縦断して各地に大きな被害をもたらした台風19号が上陸してから19日で1週間を迎えた。死者は12都県で79人、行方不明者は10人とみられる。岩手県山田町では、東日本大震災後に整備された堤防が、山から流れてきた水や土砂をせき止めて浸水。津波を防ぐための堤防が裏目に出た。住民からは「山からの津波だった」「人災だったのでは」との声が漏れた。
リアス式で有名な三陸海岸のほぼ中央に位置する岩手県山田町。船越湾沿いの港町、田の浜地区では、住宅街に面した堤防ののり面に、山から押し寄せた大量の土砂が張り付いていた。台風上陸から1週間。この日は再び大粒の雨で家屋から土砂を運び出す人の姿もまばらだった。震災後の2014年に自宅を再建したという昆野卓子さん(68)は「基礎を高くしたけど、床上1メートル40センチまで水が来てしまった」と肩を落とした。

田の浜地区は震災の津波で327棟が被害を受け、117人が犠牲となった。町は緑地公園として長さ約400メートルの堤防を整備し、昨年5月に完成した。最も高いところで6メートル。今回、住民の安全を守るための堤防が、山から流れ込んだ濁流をダムのようにせき止めてしまった。

住民によると、12日深夜から水位が上昇。最高3メートルまで到達した。13日午後には、たまった泥水が堤防を越え海に流れ始めた。決壊しかけていた部分を重機で壊し、海側に流したことで水は引いた。

家の片付けをしていた80代の男性は「1階は全部水の中。妻と2階に避難して無事だったけど、3メートルも冠水した。東日本大震災より1メートルも高い水が来た」と怒りを隠せない。町消防団の糠盛祐一第2分団長(56)は「これは“山からの津波”。まさか3・11の後に、こんな被害が出るとは」と複雑な表情。消防団が12日昼から警戒にあたり避難を促したこともあって、犠牲者はいなかった。

堤防には水を海側に流す配水管4本があるが、町の担当者は「想定を超える雨で、最大で直径90センチあるパイプに土砂が詰まってしまった」と説明した。

田の浜地区は元々すり鉢状になっているため、三方を山に囲まれた住民は常々、大雨で山から流れてくる水を心配していたという。以前は、町の中央を通って海側に向かう道が“水の通り道”になっていたが、堤防でふさがれた。そのため住民は、堤防に扉を建造し“道”を残すよう求めたが、予算の問題などから実現しなかった。

8年前の悲劇から歩きだしていた田の浜の人々。避難所に身を寄せていた女性からは「今回は人災と天災が重なった」との声が漏れた。

スポーツニッポン新人研修

木曜日, 4月 11th, 2019

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研修生発行 Toride Mainichi号外

 

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お疲れ様でした。

とりで利根川花火

木曜日, 8月 9th, 2018

8月11日 とりで利根川大花火開催予定です。

ここにきて、雲行きが怪しい・・

お天気になりますように。

 

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