長禅寺三世堂  

大鹿山長禅寺

大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派に属している。朱雀天皇の代の承平元年(931)に「平新皇将門相馬小次郎」が勅願書として創建したと伝えられている。将門の没後は、「御厨三郎吉秀」という人物がひそかに守本尊の十一面観音像を伝えたが荒廃が甚だしかったと言われている。それを承久元年(1219)には義門和尚を開祖として再興を計り、さらに「吉秀後胤織部時平」なる人物が、文歴元年(1234)に「四間四面御堂」を再建したと伝えられている。江戸時代に入ると、慶安2年(1649)8月24日付で三代将軍徳川家光より朱印状を受けている。市街地の中にありながら境内は深山幽谷の趣を有し、本堂・山門・庫裏・三世堂・地蔵堂などの多くの堂宇の有し、また市内に残る石造遺物の約6%がここにある。

      
66段の階段を上ります         八重桜が満開でした

三世堂
 
南側の石段をのぼり山門をくぐると、正面に建つのが茨城県指定文化財の三世堂である。外観は2層であるが内部は3層で、1層目には坂東三十三か所観音札所、2層目には秩父三十四か所観音札所、3層目には西国三十三か所の各音札所、3層目には西国三十三か所の各本尊の写しを安置している。合計百体の観音像を安置することから、百観音堂とも呼ばれている。内部は「さざえ堂」の形式になっており、上り専用の階段と下り専用の階段があり、順路にそって進めば堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっていて、その構造の巧みなことは驚くことばかりである。棟札などによれば、宝暦13年(1763)に建立された堂が大破したため、享和元年(1801)に再建されたことがある。さざえ堂は他には、群馬県太田市の曹源寺、埼玉県児玉町の成身院、福島県会津若松市の旧正宗寺、青森県弘前市の蘭庭院と、長禅寺のものを含めて全国でも5棟しか残っておらず、大変に貴重な建物である。

  1層目 

さざえ堂の階段は、急です  百体の観音様

2層目  

3層目  

西国(さいごく)二十六番播州法華寺寫 施主 取手宿 染野作佐衛門と、記されています(本陣のことですね)

3層目(3階部分)から利根川が見えますか? 


小林一茶の句碑 

境内に立つ高さ約1メートル余の自然石の碑である。「下総の 四国廻や 閑古鳥」の句が刻まれている。小林一茶は江戸時代後期の俳人で、現利根町の府川や現守谷市にある西林寺をしばしば訪ねていることから、取手にも立ち寄ったと考えられえいる。なお文字は小川芋銭の筆になる。

小川芋銭先生景慕之碑

河童の絵で有名な小川芋銭は、画家であるとともに和歌や俳句もたしなむ文人であった。取手の「水月会」という句会に参加したのが、取手とのつながりができたはじまりといわれている。またここ長禅寺でもしばしば画会を開いている。表の碑文は高村光太郎の筆になる。光太郎も何度か取手を訪ね、「利根川の美は空間の美である」との名言を残している。妻智恵子の看病をした姪で看護婦の春子が、取手の宮崎稔と結婚している。稔の父の仁十郎は、小川芋銭や高村光太郎と親しく交際しており、碑裏の文章は宮崎仁十郎が書いている。

                                                 取手市教育委員会の資料より

  勉強させていただき得した気分になった1日でした 遠方からおいでになっている方もいました