頑張ること

春日武彦の心察室 頑張ること 毎日新聞1月9日付

頑張る、という言葉が大好きな人たちがいる。反対に、頑張るなんて言葉は人を追い詰めかねないと否定的な態度を示す向きもある。たしかにうつ病の人に「頑張れ!」と励ますのは、当人にとっては「あなたはまだまだ頑張りが足りないじゃないか。そんな甘っちょろいことでどうするんですか」といった非難に聞こえて、なおさら心苦しくなってしまうようである。
 で、わたしとしては、頑張るなんて実は簡単なことだと思っている。充実感や満足感を伴うのだから、頑張ることは清々しいことであり、こんな楽しいことはない。
 問題なのは、この世の中、どう頑張ったら良いのか分からないとか、自分の行っていることが果たして「頑張っている」ことに該当するのか、もしかしたらまったく無駄なことや無意味なことをしているのではないのか、そういった不安感やためらいに囚われてしまうことのほうが多いという事実であろう。
 そうなると充実感や満足感どころではなくなってしまう。もどかしさや寄る辺なさが先立ってしまい、たちまち自分の営みは苦しみに満ちたものになってしまう。
 いま自分が行っていることは間違っていない、努力すればそれに応じた成果が待ち受けている――そうした確信があってこそ、人は安心して頑張ることができる。だが現実には、そのように信じきれることは少ない。
 だから人間にはどこか楽天的な部分が必要なのである。きっと上手く行くさ、努力が無駄になる筈なんかないじゃないか、といった具合に。おそらく宗教の役割には、そのような楽天性を提供するといった働きがあることだろう。
 そしてそのような楽天性は、やはり成功体験の多い人ほど持ちやすいといったことは言えるだろう。逆に、失敗続きの人は、楽天性をなかなか持てないがゆえに、頑張ることが難しくなりやすい。すなわち、人生がスムーズに行っている人は頑張ることも得意となり、人生が裏目に出てばかりいると頑張る意欲も失せてしまう。
 世の中を冷静に眺めると、「弱り目に祟り目」といった成句をつくづく実感させられる。
頑張って! 毎日新聞女の気持1月10日付

 仕事へ行く日は5時半に起き、7時半に家を出る。地下鉄駅までは車で送ってもらうので、朝の早いのも、苦にならないでいる。
 この時間、外を歩く人はまばらだ。その中でよく見かけるのが、若くて小柄なお母さんだ。赤ちゃんを抱っこし、3歳くらいの子の手を引き、大きなバッグを持っている。その姿を見るたび、出かけるまでの大変さを思う。何時に起きているのだろう。朝食はとったのかしらと気にかかる。
 近ごろは身内や知り合いに、子どもが生まれても夫婦で働き続ける人が多い。社会や職場、夫婦間の意識も、子育てがしやすいように変わってきているという。それでも、親の大変さは察するに余りある。
 あるコンサートで「頑張って!」との声援に「頑張っているのに、これ以上どうしろというの」と返して、会場をシンとさせたスターがいた。
 激励で使う「頑張って」--。私なら、家族が病気で大変だった時、その言葉がうれしかった。ふだん、そんな優しい声を掛けてもらうことなど無かったから……。
 他人に言われたくない、という話をよく聞くが、人様に安易に使ってはいけない言葉なのだろうか?
 それでも、仕事や子育てで今、大変な思いをしている人には、あえて「もうちょっとだよ。頑張って!」とエールを送りたい。

 
今日の^ ^*に頑張ったねって声をかけてあげたい
ピップエレキバンを張ってzzz

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