毎日新聞余録 豊かな音の世界
蚊の羽音ほどいらだつものはないと思うのは凡人で、「春の海」を作曲した箏曲家・宮城道雄は「二、三匹よって、プーンと立てる音は篳篥(ひちりき)のような音がしてなかなか捨て難いもの」と書いている。と同時に扇風機の音に聴き入ることもあったそうだ▲幼時に失明した宮城には音にまつわる随筆がいくつもある。「どこか広い海の沖の方に夕日が射(さ)していて、波の音が聞こえるように思われる。……何となく淋(さみ)しいような、悲しいような気持ちになって」は扇風機の音を聞いての空想である▲日暮蝉(ひぐらし)の鳴き声はどこでも一つはド、一つはシの2通りともいう。「半音違いで、たくさん時雨(しぐ)れて鳴いているのは何ともいえぬよいもので、不思議な世界に引き込まれる」。世界の豊かさは音で祝福される(「新編・春の海」岩波文庫)▲今思えば母の口ずさんだジングルベルが一つの小さな世界を開いたことになる。バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した20歳の辻井伸行さんが、母の口ずさむ旋律をおもちゃのピアノで奏でたのは2歳のクリスマスの夜だった▲「朝ごはんの時の川の音がきれいだった」「木の葉の音が東京と違った」--生まれつき全盲の辻井さんは小さいころから家族によくそんな話をした。どんな複雑な曲も耳で聞いてすべての音を記憶できるその頭の中では、水の音や鳥の声を聴くと自然に音楽が浮かぶのだともいう▲「僕は風が大好きで、風が吹いてくるといつも立ち止まって今日の風はどういう風かと想像します」。かつての辻井さんの言葉だ。その生きる世界の豊かさは、これからどんな音楽となって私たちに感動をもたらしてくれるだろう。
どなたが書いているのだろう
文章の流れが素敵だった
毎月第3月曜日に発行しているToride Mainichiは、事情により明日発行いたします