栗原はるみ

毎日新聞連載 時代を駆けるに^ ^*の憧れの君が登場しています

時代を駆ける:栗原はるみ/1 6月22日  生涯一主婦の料理エッセー、累計2000万部
時代を駆ける:栗原はるみ/2  6月23日  仕事の始まりにおまじない
時代を駆ける:栗原はるみ/3 6月24日  母に和食、夫から洋風生活
時代を駆ける:栗原はるみ/4  6 月29日  70%の暮らし「主婦十か条」で、仕事と家事
時代を駆ける:栗原はるみ/5 6 月30日  主婦の目で「ゆとりの空間」
時代を駆ける:栗原はるみ/6 7 月1日   日本の家庭料理を世界に

 

時代を駆ける:栗原はるみ/1 6月22日 生涯一主婦の料理エッセー、累計2000万部
 
 <89年に初めての料理本を出版し20年。今年3月までに93冊、累計発行部数は2000万部を超えた。カリスマ主婦の元祖とも言われるが、そのきっかけとなったのが、92年に出版した「ごちそうさまが、ききたくて。」。続編「もう一度、ごちそうさまがききたくて。」(94年)とともにミリオンセラーになり、17年たった今も毎年各1万部以上が増刷されている>

 
著書2000万部突破の記者会見で「ごちそうさまが、ききたくて。」を手に笑顔を見せる栗原さん=東京都新宿区のホテルで4月8日、小林努撮影
 料理家として仕事を始めて7年目でした。この本が売れなければ、もう料理の仕事はやめようと思っていました。当時は料理ブームで雑誌が多くありましたが、似たような内容で、レシピ紹介が中心でした。スタイリストさんが器から食卓周りを全部調え、自然光ではなく、ライトの光で料理を撮影していました。でき上がりはきれいですが、料理製作者の名前がなければ、だれが作ったのか分からなかった。料理が、ただ流されていくような違和感を感じていました。

 そんな時、当時フリーの編集者だった川津幸子さん(料理研究家)から「暮らし方全体がわかるような料理エッセーの本を作らない?」と声がかかったんです。

 <食は作り方だけでなく、家族のあり方、暮らし方にも大きな影響を与える。川津さんも、当時の料理本に疑問を抱き、「家族が喜ぶ料理を作るというはるみさんの思いを読者に伝えたかった」という>

 料理の作り方だけでなく、私の暮らし全般、家族の喜ぶ顔が見えるような物語のある「料理エッセー」を作ろうと本気になりました。家でいつも使っている食器で、家族の普段の食卓そのものを再現したんです。

 母から教えてもらった「さばそぼろ」「ごま味けんちん汁」、家族の大好物の「千切りニンジンとツナのサラダ」……。料理一つ一つの思い出、母の味付けなども添えて140点の料理を紹介しました。

 <どこの家庭にもある食材と調味料で簡単においしく作れる料理が栗原流の持ち味だ>

 高級食材や手に入りにくい材料で凝った料理を作るより、だれもが作れそうだと思う料理が基本です。そんなレシピを書くのは意外に難しいんですよ。理科の実験と同じように何回も、時には10回以上も試行錯誤をして味を決めていきます。塩の量が1グラム違っても味は変わります。

 ジャガイモでも、買ってすぐに作る肉ジャガと2週間たってからでは味が違います。家庭にいつも鮮度のいい材料があるとは限りません。その状況を想定し、ひと手間かけることでおいしくするための「だし」や調味料が必要になってきます。そうした工夫が認められたのだとしたら、とてもうれしく思います。

 それまで、料理エッセーの本はありませんでした。料理の作り方はもちろん、家族との日々のやりとり、家事の知恵、インテリアや食器の楽しみ方が載っていたのもよかったのでしょう。大勢の人に愛され、サイン会などで「母娘2代続けて愛用しています」と言われるとうれしいですね。

 <料理だけでなく、栗原さんの暮らし方、生き方そのものにあこがれる人は多い>

 なぜ、多くの主婦に受け入れられたのか、今でもよくわかりません。結婚した当時は一生涯、主婦として暮らしていくつもりでした。夫からは「そんな美人じゃないし、スタイルも良くなかったのがよかったんじゃない」と言われるんですけどね。どこにでもいそうな主婦でも、ちょっとがんばれば自分なりの暮らしを楽しめる。そんな親近感からかもしれません。

 本が売れ、肝に銘じたことは、普通の主婦の目線を忘れてはならないということです。でないと同じ主婦から受けいれられません。今も晩ご飯は夫と一緒です。土日はあるものだけで料理をするように心がけています。

 

時代を駆ける:栗原はるみ/2  6月23日 仕事の始まりにおまじない
 
  
栗原はるみさん=東京都目黒区で4月16日、平田明浩撮影 <ひとりの家庭の主婦が料理家になるきっかけは来客にふるまった家庭料理だった。テレビの料理番組で、著名人の料理を裏で再現するアシスタントを務め、新しい世界が広がっていった>

 夫(玲児さん)がテレビのフリーキャスターをしていたころ、毎晩大勢のお客さまを自宅に連れてきていました。その都度、あり合わせのものでおもてなしをしていました。その料理を人づてに聞いたテレビ局のディレクターから声がかかり、83年からテレビ番組の料理アシスタントをするようになったのです。

 ただ、請われていったにもかかわらず、周囲の目は冷ややかなものでした。当時は料理の専門学校を出た方やプロがほとんどで、私のような専業主婦はいませんでした。風当たりは強かったですね。

 
栗原さんがデビューした「LEE」の特集ページと表紙 人というのは認められないとだめだということを実感したのです。どんなに一生懸命やっても、だれかが認めてくれなければ仕方ない。そう痛感しました。

 仕事を始めて1年目は、とてもつらくなってやめようと思い、夫に相談しました。夫から「一度始めたことは3年は頑張ってみないと何も分からないよ」と言われ、それからは必死になって続けました。今から考えると、裏方の仕事をして社会の仕組みや人生がよく見えるようになりました。

 <テレビの仕事が終わったすぐ後、雑誌「LEE」(集英社刊、85年8月号)で、16ページの特集「野菜と一緒に食べる暑気払い焼き肉料理」が掲載される>

 雑誌の担当者が、素人でも構わないということで、肉のたれやソースを使った食卓を紹介しました。それが読者に好評で、いろいろな雑誌から仕事をいただくようになりました。

 それまで、アルバイトもしたことがなかったので、銀行の預金通帳は一度も持ったことがありません。それが自分の通帳に原稿料が入ってくるようになり、本当にうれしかった。初めて自分で収入を得て、独り歩きできるんだと実感しました。

 <現在も、雑誌やテレビの撮影は自宅キッチンで午前9時ごろから始まる。どんなに忙しくても、大勢のスタッフがいても、仕事の始まりには必ずコーヒーとケーキを出すことが決まりとなっている>

 これは今日一日、みんなと楽しく仕事ができますようにという私のおまじないです。お客さまにも必ずお出ししているのが、私の手作りケーキです。仕事をするうえで、人とのコミュニケーションは一番大切なものだと思っています。お互いに気持ち良く仕事をするためには欠かせないものなんです。

 実はこれは、苦しかった料理番組の裏方時代の経験から生まれました。当時、スタジオには若いスタッフが多く、朝食抜きでやってきて、おなかをすかせたまま仕事が淡々と始まる、といった感じでした。みんなで一つの仕事を楽しんでやっているという雰囲気がありませんでした。

 ある時、シフォンケーキを焼いてスタジオに持っていきました。朝一番にみんなで温かいお茶とケーキをいただくことで徐々にコミュニケーションをとることができました。気まずい雰囲気を少しでも和らげ、みんなで今日一日楽しく仕事をしましょう! そんな気持ちで始め、3年間続けました。終わった時にはスタッフのみなさんが涙を流してくださって……。

 大切なおまじないをいただくことになりました。

時代を駆ける:栗原はるみ/3 6月24日 母に和食、夫から洋風生活

<栗原さんは1冊の料理本の中でも、「サバの焼きびたし」「アジのたたき薬味ずし」などの和食とともに「ズッキーニと生ハムのピザ」「マッシュルームのエスカルゴ風」といった「洋」の料理も提案する。伊豆半島で育った子供時代は、食も生活スタイルも「和」そのものだった>

 料理の原点は母親=菊間博子さん(87)=から受け継いだ和の味です。洋風な暮らしや食卓の楽しみ方は夫からの影響が大きいですね。

 
「時代を駆ける・栗原はるみ」猫のさだちゃんと一緒に=東京都目黒区の自宅で4月16日、平田明浩撮影 静岡・下田の実家は印刷業を営んでいました。私が小さかったころ、母は毎日家族と従業員のために食事を用意していました。朝早く起きて米を研ぎ、だしをきちんと取ってみそ汁を作っていました。昼はかつお節をひいてそばつゆを作り、かき揚げをあげている姿を覚えています。

 純和風な食卓でした。

 そんな母を見ながら、自然に料理を覚えていきました。すりゴマを入れた「ゴマのみそ汁」や野菜をゴマで炊いた料理はよく作ります。母が作るぬか漬けやゴマあえ、煮物などは味に厚みがあって、いまだにかなわないなあと思います。

 <こうした和食中心の実家に対し、夫のキャスター、玲児さんは「洋」の生活を送っていた。そのハイカラな洋風の暮らしとの出合いは衝撃的だったという。20歳、短大を卒業して間もないころのことだった>

 18歳で東京の短大に入り、兄(裕展(ひろのぶ)さん)と一緒に暮らしていました。焼き魚、ハンバーグ、コロッケ、トンカツにサラダといったごく普通の食事を作っていました。

 卒業すると、父(平五さん、89歳で死去)から「働かずに家に帰って来なさい」と言われ、そのまま下田に戻り、家の手伝いをしながら、刺しゅうや編み物を習っていました。

 そんな時、下田に別荘がある兄の友人のところに誘われました。そこにはデザイナーや写真家、イラストレーターなど時代の最先端を行く人たちが集まっていました。留学経験のある人もいて、ギターやピアノをひいたり、クルーザーやスポーツカーを持っている人もいました。今まで知らなかった世界が突然目の前に開けました。

 その中に、将来結婚することになる玲児さんもいたのです。

 <洋風の料理に魅せられただけでなく、食器やインテリアなど暮らしの楽しみにも目を奪われたという>

 別荘で、「一緒にご飯を食べよう」と出てきた料理がマッシュルームの炊き込みご飯、鶏もも肉のオーブン焼き、カレー、サラダ……。いずれも大きな洋食器にドーンと盛りつけられているんです。デザートはブルーベリーマフィンでした。こんな世界もあるんだと驚きました。料理は面白いなと、目覚めた最初だったような気がします。

 ランチョンマットとカトラリー(ナイフ、フォークなど)をきちんとセットした食卓もカルチャーショックでした。大きなユリやバラなどの洋花を花びんにいけ、花柄のソファやクッションなどがあり、すべてがおしゃれでした。

 <その後、玲児さんの下田の別荘にもよく招かれた。一回り以上の年齢差、離婚歴もあり、マスコミの世界にいる玲児さん。親の大反対を押し切り、駆け落ち同然で26歳の時に結婚する>

 彼は私を招いては、トマトシチュー、Tボーンステーキ、サラダにサングリアなどの手料理をごちそうしてくれました。この時に出合ったさまざまな洋の料理、初めて目にした暮らし方は新鮮でした。

 一人娘だった私は大変かわいがられ、ある意味ではカゴの中の鳥のような状態でした。私も親に反抗するようなタイプではなかったので、それでいいと思っていたんです。それが、玲児さんを通して新しい世界が見えました。

 人生は「1+1は2」だけでなく、3にも4にもなる可能性があるということを彼から学び、その言葉に背中を押されました。自分自身が変わってみたいという気持ちも心のどこかにあったんでしょうね。現在の私の礎は、この時から始まっているのかもしれません。両親も私たちの暮らし方をみて、次第に理解してくれるようになりました。

 

時代を駆ける:栗原はるみ/4  6 月29日 70%の暮らし「主婦十か条」で、仕事と家事
 ◇HARUMI KURIHARA
 <テレビの料理番組で働き始めたころ長女の友さんは小学校1年生、長男の心平さんは幼稚園の年少。テレビ局通いが3年続いた>

 朝7時にはスタジオ入りし、夜10時過ぎまで収録が続くこともあり、家族にはいろんなことで迷惑をかけました。夫も早朝に出勤していたので、朝は長女が弟を起こしてご飯を食べさせ、送り出した後、自分で鍵をかけて学校に行っていました。仕事の予定が延びて、長男を幼稚園のお迎えにいけなかった時は1人で電車で帰らせたこともありました。無事に電車に乗れたか、車にひかれていないか不安で胸がどきどきしました。近所の方にお願いして急場をしのいだこともあります。

 当時を思い出し、娘から「みそ汁を温め直したり、弟の世話をみるのは大変だった」と言われたこともあります。小さな子どもにとっては負担が大きかったかもしれませんね。

 <仕事は自宅での撮影が中心に変わった。心平さんは「もの心ついた時には家にいつも撮影スタッフがいた」と振り返る。当時、一番記憶に残っているのは朝のゴミ出しを頼まれたときのこと。急いでいたので「いやだ」と拒んだら突然、栗原さんが泣き出してしまったという>

 アシスタントもいなかったので、買い物から調理、後片づけのすべてを1人でやっていたころだと思います。撮影はほぼ毎日で、いっぱい、いっぱいだったんでしょうね。一日中、立ちっぱなしで疲れ果てている私を、心平はいつも気遣ってくれ、夜に肩や足をよくもんでくれました。

 <仕事と育児の両立に大変だった時期、テレビキャスターの夫、玲児さんはあまり協力的ではなかったという。それでも夫に頼み事はしなかった>

 子どもたちが中学、高校生だったころ、夫は仕事や付き合いが忙しく、家にあまり帰って来ませんでした。なぜ私だけが家事、育児すべてをしなければならないのか。夜、1人で考え込むこともありました。ただそうやって思い悩み、相手に不平不満を言っても解決しません。ある時、家族に期待せず、自分のやるべきことをきちんとやるしかないと踏ん切りをつけたのです。

 40年近くも夫婦をやっていれば、何度も意見が衝突します。落ち込むこともありますが、そんな時は、私は夫と知り合ったころを思い出すようにしています。結婚当初、その時の彼への気持ちを振り返ることで、自分自身を見つめ直せます。それで大変な時期を乗り越えてきたと思います。

 <そんな経験を踏まえ、はるみ流「主婦十か条」を提案する>

 大した十か条ではありませんが、どんなに忙しくてもこれだけは続けるようにしています。これを心がければ、いつも気持ちよく楽しく暮らしていけると思っています。

 (1)家族より早く起きる

 (2)お茶はいつもていねいにいれる

 (3)ガラス窓はきれいに

 (4)いつも気持ちのいい服装をする

 (5)夫を玄関まで送り、迎える

 (6)トイレはいつも清潔に

 (7)季節を飾る

 (8)残り物を使って料理を作る

 (9)家事は楽しくする

(10)夫の家族を大切にする

 ポイントは「70%の暮らし」です。食事作り、窓ふき、庭の手入れ、玄関の飾りなどやりすぎない、がんばりすぎない。いつもしているルーティンの家事にちょっと手を加えれば大丈夫という余裕が必要です。そのための十か条でもあります。

 働く女性は本当に大変です。家事、育児が肩にかかってきます。結婚したての若い女性にはアドバイスとしてよく言います。「すべて自分でやりきる覚悟を持ってください」と。相手に過剰に期待せず、自分がやるべきことをきちんとやっていれば、次第に夫は理解し手伝ってくれるようになると思います。

 

時代を駆ける:栗原はるみ/4  6 月30日 主婦の目で「ゆとりの空間」

 <料理家として脚光を浴びるなか、1995年に雑貨ショップ&レストラン「ゆとりの空間」をオープンする>

 「ごちそうさまが、ききたくて。」(92年)が出版され、やがて本で紹介されていた食器がほしいという問い合わせが毎日何十件とかかってくるようになりました。当時、夫が経営していたバッグとアクセサリーの店が東京都目黒区のビルの2階にあり、ここで私のお気に入りの食器を売ってみようかと軽い気持ちで始めました。「ゆとりの空間」1号店になりました。

 まだ、おしゃれな雑貨品を扱う店が少なかった時代です。食器やテーブルクロスが並んでいるのが珍しかったようです。女性のスタッフ5、6人と一緒に品ぞろえやレイアウトを考えたりして、楽しかったですね。店の飾り付けや内装も1カ月に1回は模様替えをしていました。

 レストランはオープンキッチンで、6種類のおかずをのせた1プレート「ごちそうさまランチ」はとても人気が出て、毎日100メートル以上の行列ができました。また、在庫処分のガレージセールをすると、お客さんが店に入りきれず、30分以上待っていただかなければならないほどでした。

 <栗原さんの店は進化を遂げ、現在、雑貨を扱う「栗原はるみ」ショップが全国の主な百貨店に51店舗。「ゆとりの空間」はカフェ・レストランとして東京都渋谷区の本店など12店舗展開している>

 本を見たエプロン会社から、商品化しないかというオファーがありました。最初は量産化するつもりはなかった。お断りしていたのですが、とても丁寧なお手紙などをいただき、私の考える使いやすいものを提案できるならと、ライセンスビジネスを始めることにしました。現在は食器メーカー、漆器屋、テーブル周りの会社など六つの会社が商品開発から一緒になって、「栗原はるみ」ショップを運営しています。

 もの作りの基本はあくまで主婦の目線です。自分が暮らしの中でこれだったら使いやすい、家事が楽しくなると思えるもの、エプロンや食器、調理器具、調味料などを作っています。

 例えば、そのまま食卓に出せるおしゃれなデザインの計量スプーンやすり鉢、毎朝のお弁当作りに便利な小さくて深めの「お弁当用フライパン」はずっと人気がありますね。

 <ある日の栗原さん。青のボーダーのTシャツに七分丈のベージュのコットンパンツ、紺のエプロンをキリッとしめる。これらすべて自分のデザインだ>

 特にエプロンには思い入れがあります。今までに600種類以上のエプロンを作ってきました。これ一つで、主婦の生活が変わるんです。自分のお気に入りのエプロンをつけると料理を作るのが楽しくなる。そんなエプロンを作りたくて、気がついたらこんなに増えていました。

 子どもが小さいころ、毎朝が本当に忙しく、大変でした。当時、住んでいた日吉(横浜市)のマンションは坂の上にあり、ゴミを出すのもひと苦労でした。朝8時という一番忙しい時間帯で身支度もままならない。そこで考えたのが、Tシャツの上から一枚身に着けるだけで、外に出るのが楽しくなるようなエプロンです。裁縫も好きだったので自分用に「ゴミ出しエプロン」として作りました。近所でも評判になり、多くの人から作ってほしいと言われるようになりました。

 このエプロン一枚で毎朝のゴミ出しも苦ではなくなりました。以来、おなか部分に取り外しのできるミニタオルやランチョンマットのついたもの、ギャルソンタイプのものなど、用途に応じたエプロンを作っています。そんな日々の雑貨を提案していきたいと考えています。

 

時代を駆ける:栗原はるみ/6 7 月1日   日本の家庭料理を世界に
 
 <英国コンラン・オクトパス社から04年に出版された「Harumi’s Japanese Cooking」が、グルマン世界料理本大賞で同年度のグランプリを受賞した。世界のクリハラとして注目される>

 最初、この賞がどういうものか知りませんでした。フランスの資産家エドアー・コアントロー氏が設立した、世界の優れた料理本を選ぶ賞で、この時は10回目でした。私の本が世界67カ国で出版された約5000冊の中から選ばれたと知り、驚きました。これは決して私だけの力ではなく、日本料理を世界に広めようとしてきた先人たちの努力のおかげだと思っています。そうした長い積み重ねがあってこそ、和食の良さ、おいしさが世界に伝わってきた。ちょうどその時期に、私の本が評価されたと思っています。

 
英語でのテレビ番組収録に臨む栗原はるみさん=東京都目黒区で4月17日、山本晋撮影
 連絡をいただいた時、アジア料理部門賞の受賞だと思っていました。都合がつかなかったので欠席の連絡を入れたら、事務局から直接電話がかかってきて、グランプリだと言われました。「えっ! それは大変」とスウェーデンでの授賞式に出席しました。

 <そもそもこの本を英国で出版することになったきっかけは、ちょっとした手料理を現地で披露したことだった>

 8年前から英国を取材のため、年に2、3回は訪ねていました。スコットランドのマナーハウス(豪農の家)に宿泊した時、残っていた肉にワインを振りかけ、バターとしょうゆで焼き、たまたま持参していたワサビを添えて出したら、みなさんにすごく喜ばれたのです。その時、長年私の通訳をしてくれていた英国の女性が「和食は英国にも必ず通用する料理だ」と確信して、あちこちの出版社に企画を持っていってくれ、英国での出版につながりました。

 <世界各地でプロモーションをし、実際に料理を実演するなど、日本の家庭料理を広げている>

 ロンドン、ニューヨーク、パリ、フランクフルトなどで、この本のためプロモーション活動を積極的にしました。毎回、100人近いプレス関係者が取材に来て、私の料理にとても興味を持ってくれたのです。ナスやインゲンのゴマあえ、豆腐にリコッタチーズをのせたものなど、シンプルで季節感のある料理を紹介したり、裏巻きずしの料理講習も開きました。まきすを日本から100枚以上持って行き、アボカド、大葉、カニカマボコを具にいれ、表面にゴマをたっぷりまぶしたら、これがすごく好評で、地元の新聞や雑誌などに写真入りで大きく取り上げられました。そしてこの本は世界6カ国で出版されました。

 <07年から世界80カ国で放映されている海外向けテレビ、NHKワールドの英語放送「Your Japanese Kitchen」にレギュラー出演し、英語で日本の家庭料理を紹介している。今年9月には3冊目の英語版の料理本も出版される予定だ>

 昨年の秋、マネジャーと2人でロンドンに小さなアパートを3週間借りて、今回の本の撮影をしてきました。アシスタントなしで1人で75レシピの料理を作りました。朝9時から午後5時過ぎまでの撮影です。帰りは市場に寄って次の日の買い物をし、深夜まで下ごしらえをする生活でした。あまりにハードで体重が落ちました。

 紹介するレシピは、どんな国の人でも作れる内容です。白身魚をソテーし、それに、あんかけを加えたり、酢みそあえ、ゴマあえにするなどといった和食のエッセンスを足しました。油を使わないヘルシーな料理も紹介しています。

 今回の英国での経験は私にとって、とても有意義なものとなり、和食の一番大切なことが見えてきたように思います。

 和食には季節感があり、野菜中心で体に優しい、そして食材を捨てずに使い切る……。そんな魅力のある日本のおかずを、これからも世界中の人たちに食べていただきたいし、もちろん日本の若い人たちにも、そのメッセージを伝えていきたいと思っています。
 
 毎日新聞東京版から

 料理研究家、栗原はるみさんがプロデュースするショップ&レストラン「ゆとりの空間」恵比寿本店(渋谷区恵比寿西1)で11日から、夏の料理教室が開かれる。「私の好きな野菜たっぷりレシピとデザート」「男性のための料理教室」などをテーマに、7月25日まで13レッスンがある。

 栗原さんの著書が今春、累計2000万部を突破したのを記念した企画。長男の栗原心平さん、チーフアシスタントの木村奈緒美さんが各回の講師を務めるほか、7月5日の教室では、栗原はるみさんが三色丼など5品のレシピを紹介する。

 各回とも予約制で有料。教室の詳細や申し込みは、同店(電話03・3770・6800)。

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