日本料理 山富貴によれば ⇓
室町時代、太田道灌は26歳という若さで江戸城主を努め、城内では兵学をおさめ、
戦術家のプロとして、また城づくりの名人としてその名を広めておりました。
その道灌が、鷹狩をするため、越生の里へ来た時のお話です。
この辺りでにわか雨にあい、道灌は蓑笠を借りようと、近くの農家に立ち寄りました。
すると中から少女が出てきて、黙って山吹の枝を一枝差し出したのです。
道灌は、この少女の無礼に腹を立てたのですが、実は少女の行動は、山吹の花にまつわる
古歌にちなんでのことでした。
七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき 「後拾遺集」
この歌には、山吹の花は七重にも八重にも咲くけれど、実が1つもならない花です。
私の家は貧しくてお貸しできる箕(み)は1つもないのです。という意味が込められていたのです。
城に戻ってこの歌の意味を調べた道灌は、自分の無知を恥じ、
それ以降は学問にも励み、文武両道を兼ね備えた名将となったのです。
このお話にまつわる山吹の里は当店に隣接しており、
復元されたあずま家が当時の面影を忍ばせております。
という故事にちなんで名付けられた公園が『山吹の里歴史公園』だ
でも、山吹の里は、豊島区高田1-18にも存在する
明治の末までこのあたりは山吹の咲き乱れる野原だったそうだ
面影橋のたもとには、観音像の石碑がある
山吹伝説・・他にもあるのかしら?
あるんですね 山吹の里伝説
荒川区町屋の泊船軒と言う珍しい名のお寺に山吹の塚碑がある
越生と言えば梅林を思い浮かべていたが、
武蔵野丘陵は^ ^*にとって未開発 とっても素敵なところだった
伝 山吹の里
所在地 越生町西和田
室町時代、太田道灌が川越の領主であったころの話である。道灌が父の道真を訪ねた折、この辺りでにわか雨にあったので、近くの農家に立ち寄り蓑を借りようとした。すると一人の少女が出てきて、だまって山吹の花を差し出した。
道灌は山吹の花にちなんだ古歌、「七重八重花は咲けども山吹の 実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」が考えつかず、少女の思いが分からずに恥をかき、のち大いに学問にも励み、文武両道を兼ねた名将と言われるようになったのだと言う。この話は広く知られており、山吹の里と称するゆえんである。
昭和三十七年に県指定旧跡となっている。
昭和五十九年三月
4月中〜下旬にかけ、約3000本のヤマブキの花が咲く頃が
本日3回忌だった故人が好きだった場所だったのかもしれない
山吹の里伝説・・・もし^ ^*がブロガーでなかったら
こんなに興味深く調べなかっただろうなぁ
ブログは、^ ^*の歴史なのかも
山吹の里公園に隣接している日本料理 山富貴