毎日新聞連載 川村妙慶の「泥の中で咲う」最終回

泥の中で咲う:/12止 無関心=川村妙慶
毎日新聞 2013年03月19日 東京朝刊
<泥の中で咲(わら)う>
ある青年からこんなメールが届きました。「会社の朝礼が苦痛でなりません。日々感じたことを話す『感話』の割り当てがあるからです。どうしたらいいのでしょうか?」と。
青年にいろいろ尋ねてみると、小学生のころ、夏休みの自由研究は親が引き受け、「あなたは勉強だけやっておきなさい」と言われていたそうです。子どもは知識だけでなく、体験や観察を通じて、はじめて豊かな心や想像力をもつ人間になれるものなのですが。
昨今、自分のことしか考えられない人が増えている気がします。興味のあることにだけ耳を傾け、自分にメリットがないことには関心がない。テナントが一つも入っていない暗い空きビルで、明かりがついたエレベーターが昇り降りしているような光景が目に浮かんできます。つまり、自分の行動範囲だけが照らされ、他は真っ暗闇なのです。
今から750年以上前に生きた親鸞聖人は「歎異抄」の中で「私は、父母の供養のために一ぺんたりとも念仏を唱えたことがない」とおっしゃいました。両親を供養しないとも聞こえますが、そうではありません。両親や私を育ててくれるのは、生きとし生けるものすべてのつながりであり、だから身内だけに目をやるのでなく、縁でつながるすべての命に目を向けてほしい、と願われたのです。
私の命は自分で作ったのではありません。はるか昔から多くの方との縁でつながれて私があるのです。この人と私は違う、と切り離すことはできないのです。
海に流れ込んだ水は、そこで終わりを迎えるのではありません。太陽の光に照らされ、水蒸気となって大空に昇り、雨となって地上に降り注ぎます。ある時は田や畑に、そして私たちの飲み水にもなります。水はやがて川に流れ出し、海にたどり着きます。すべてがつながっているのです。
「空や大地をながめ、そんなことを思う時間をもってほしい。それがあなたを深い人間へと成長させるのです」と青年に伝えました。
隣の人間の苦しみに目を向け、命の声を聞ける人として生きていきましょう。

川村妙慶の泥の中で咲う No12 無関心 毎日新聞 2013年03月19日

<泥の中で咲(わら)う>

ある青年からこんなメールが届きました。「会社の朝礼が苦痛でなりません。日々感じたことを話す『感話』の割り当てがあるからです。どうしたらいいのでしょうか?」と。

青年にいろいろ尋ねてみると、小学生のころ、夏休みの自由研究は親が引き受け、「あなたは勉強だけやっておきなさい」と言われていたそうです。子どもは知識だけでなく、体験や観察を通じて、はじめて豊かな心や想像力をもつ人間になれるものなのですが。

昨今、自分のことしか考えられない人が増えている気がします。興味のあることにだけ耳を傾け、自分にメリットがないことには関心がない。テナントが一つも入っていない暗い空きビルで、明かりがついたエレベーターが昇り降りしているような光景が目に浮かんできます。つまり、自分の行動範囲だけが照らされ、他は真っ暗闇なのです。

今から750年以上前に生きた親鸞聖人は「歎異抄」の中で「私は、父母の供養のために一ぺんたりとも念仏を唱えたことがない」とおっしゃいました。両親を供養しないとも聞こえますが、そうではありません。両親や私を育ててくれるのは、生きとし生けるものすべてのつながりであり、だから身内だけに目をやるのでなく、縁でつながるすべての命に目を向けてほしい、と願われたのです。

私の命は自分で作ったのではありません。はるか昔から多くの方との縁でつながれて私があるのです。この人と私は違う、と切り離すことはできないのです。

海に流れ込んだ水は、そこで終わりを迎えるのではありません。太陽の光に照らされ、水蒸気となって大空に昇り、雨となって地上に降り注ぎます。ある時は田や畑に、そして私たちの飲み水にもなります。水はやがて川に流れ出し、海にたどり着きます。すべてがつながっているのです。

「空や大地をながめ、そんなことを思う時間をもってほしい。それがあなたを深い人間へと成長させるのです」と青年に伝えました。

隣の人間の苦しみに目を向け、命の声を聞ける人として生きていきましょう。

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