「87歳の新人です」ハイチのマザー・テレサ

毎日新聞 20140907

ストーリー ハイチのマザー・テレサ 87歳医師の再始動

 夏の青空が広がった。静岡県御殿場市の富士山のふもと。125年前にフランス人宣教師が開いた神山(こうやま)復生病院は、イチョウやカエデが茂る広大な森林に囲まれるように建っていた。

日本最古のハンセン病療養所には70〜90代のハンセン病の元患者7人が暮らし、ホスピス病棟には余命6カ月以内と診断されたがん患者約20人が人生最後の日々を過ごす。病院近くでバスを降りると、「ウィンプル」と呼ばれる白色の布をかぶり、首から木製の十字架を下げた小柄な女性が駆け寄ってきた。「お久しぶりですね。ほら、見てください。もう走れるようになったんですよ」。ウオーキングシューズを履いた足で小走りを繰り返した。医師で修道女の須藤昭子さん(87)だった。

1年前、カナダ・ケベック州にあるクリスト・ロア宣教修道女会本部で会った時は手押し車がなければ歩けないほどやつれていた。「負けてたまるかって。リハビリを頑張りました」

ハイチのマザー・テレサ−−。日本のボランティア関係者らは畏敬(いけい)を込めてそう呼ぶ。西半球の最貧国といわれる島で、体調を崩した昨年7月までの36年間にわたって専門医として結核患者の治療や貧困対策に当たってきた。けれども、須藤さんはかぶりを振った。「私は他人を憎らしいと思うこともあるし、聖人ではない。美化しないでほしい」

その須藤さんは今年6月、神山復生病院にやってきた。療養のためではない。余命宣告された患者の苦痛を和らげる終末期医療に携わるためだ。「87歳の新人です」。口元を緩めた。「10年ほど前『治療をしない治療』があると聞いて興味を持ち、いつか関わりたいと思ってました」

生きられる人を助ける医療から、生きられない人を助ける医療の道へ。

「死が間近に迫ると、人は何を考えるんでしょうか。ハイチでいっぱい亡くなる人を見てきたけど、これだけは分かりません。勉強中です」

再始動を誓う口調は力強かった。ハイチでもそうだったのだろう、140センチほどの全身が「信念」の塊のようだった。

「死の病」に献身36年

窓にひびの入った日本車が穴の開いた道路を行き交い、路上では裸足のストリートチルドレンたちが物乞いする。カリブ海の島国ハイチ。旅立った梅雨時の日本とは違って、はるかに強い日差しが照りつけていた。

人口は約1013万人、四国の約1・5倍の広さで、多くの国民が1日1ドル以下で生活する。2010年1月には大地震に見舞われ、約32万人が死亡した。それから4年がたつというのに、首都ポルトープランスには、倒壊した建物のがれきが大量に残されていた。

ポルトープランスから国道を走ること約1時間半。海沿いの町レオガンに結核専門病院「国立シグノ結核療養所」はある。昨年7月までの36年間、医師でカトリック修道女の須藤昭子さん(87)が半生をささげてきた病院だ。東京ドーム1個分の広大な敷地に病棟や診療所など6棟の建物が並ぶ。

世界保健機関(WHO)の07年の集計では、ハイチの結核患者数は人口10万人当たり306人。日本は21人、米国は4人、隣国のドミニカ共和国でも69人であることを勘案すれば、ハイチの罹患(りかん)率は高いうえ、「いまだ死に至る病として恐れられている」(ハイチの医療関係者)。

シグノ療養所でとりわけ大きく立派なコンクリート造りの平屋の病棟があった。私が訪ねたときは、ベッドなどの医療設備が届いておらず患者はいなかった。事務長のハイチ人シスター、エブリン・モリーネさん(62)が案内してくれた。

「療養所は1948年に開院しました。大地震で病棟は倒壊してしまったのに、ハイチ政府は何もしてくれない。シスター・アキコ(須藤さん)は、プレハブで診療していたんです。この病棟は彼女が日本政府と交渉して支援を引き出し、建ててもらったんです」

「アキコ」と呼ぶ声に親しみがこもる。モリーネさんは須藤さんと30年以上ともに活動してきた。

「アキコの献身がなければ、今のシグノ病院はなかったでしょう」

印象的な出来事があったという。04年、独裁的な政権運営が批判されていたアリスティド大統領(当時)と、退陣を求める武装集団との戦闘が激化し、ハイチは事実上内戦状態に陥っていた。路上には遺体が転がり、略奪が相次いだ。外国人が大挙して出国する中、モリーネさんが須藤さんに帰国するよう勧めると、こんな答えが返ってきた。

「私が離れたら誰が患者さんの世話をするの」

モリーネさんは言った。「シスター・アキコを『ハイチのマザー・テレサ』と呼ぶ人がいますけど、私もそう思います。尊敬できる人でした」

「ひどい状況でした。想像をはるかに超えてね……」。須藤さんはそう独りごちながらハイチでの日々を語り始めた。ハイチの療養所で活動を始めたのは1977年12月。50歳になっていた。

その前年、カナダ・ケベック州にある修道女会の本部でフランス語を学んでいた。ある日のこと、新聞記事が目に留まった。「ハイチ 成人の死亡原因トップは肺結核」。「日本の結核対策をハイチに持ち込めば状況を改善できるかもしれない」。結核専門医の須藤さんはハイチへの派遣を修道女会に申し出た。「ハイチは四国よりちょっと大きいくらいだから簡単に改善できるだろうって軽く考えちゃって。おっちょこちょいなんですよ。行ってみたら、現実は大違いでした」

ハイチ政府から提案されたのがシグノ療養所での勤務だった。「療養所なんて名ばかりで、患者さんの『死に場所』だった。治療せずに隔離していただけ」

「アジール」(避難所)と呼ばれていた敷地には、結核患者をはじめ、ホームレスや精神を病んだ人たち、障害者など行き場のない人たち数百人が集められていた。毎週土曜日になると、小型トラックに30人ほどの患者がぎゅうぎゅう詰めにされてポルトープランスからやって来た。「トラックが到着すると、積み荷のように運転手が患者を放り投げるんです。びっくりして目を覆いましたよ」

療養所には電気や水道、電話はなく、ベッドすらない。やせ細った患者がむしろに寝かされているだけだった。抗結核剤が国から支給されていたが、看護師が勝手に売り払い、療養所には残っていなかった。「あるのは2本の注射器と5本の針だけ。肝心の医師は結核への感染を怖がって病院にほとんど来ないんです」。患者の遺体は段ボールに入れて空き地に埋められていたという。

「ハイチに来たのは間違い。医師としてできることはない。日本に帰る」。来てまだ3週間だったが、ひどい状況に音を上げかけた。そんな時、須藤さんを思いとどまらせたのは1本の電話だった。

「カナダからあなたに電話がありましたよ。この番号に折り返してください」。帰宅しようとした須藤さんを門衛が呼び止めた。心当たりがなかったが、電話局に行き、国際電話をかけた。相手は見ず知らずのカナダ人女性だった。

「あなたのためにお金を集めました」。女性は須藤さんがハイチに出発する際、カナダで開かれた「派遣式」で、須藤さんの講演を聴いていた。心を動かされた女性が知人から寄付金を募っていた。「応援してくれる人がいるんだから諦めずに頑張らなきゃって。私って単純なんです」

しばらくして、カナダから寄付金が届いた。須藤さんはまず、病院の設備を改善するために動いた。カナダに戻って中古のベッド200台を買い、コンテナでハイチに送った。日本の自動車会社に頼んでライトバン2台を寄付してもらった。大阪に行き、大学教授の友人と一緒に薬問屋を回って薬を集めた。療養所の食事は須藤さんが集めた寄付でまかなった。

水道がなく、下水で体を洗っていた患者らのために井戸を掘った。「機械がないので、ハイチの人たちと一緒に掘りました。30メートルほど掘って水が出てきた時は本当にうれしくて。みんなで輪になって踊っちゃいました」

活動は病院の外にも広がった。首都ポルトープランスに隣接するシテソレイユ。狭いエリアに20万〜30万人がひしめく西半球最大級のスラムだ。治安もいいとは言えない。けれども須藤さんは何年もの間、退院後の患者の様子を見にこの地に通った。

須藤さんの活動は次第に知られるようになり、日本やカナダで支援の輪が広がっていった。「患者の死に場所」だった療養所は80年代半ばになると、ハイチでも屈指の設備を備えた病院施設に変わっていた。

須藤さんは「私だけでは何もできませんでした。私は善意の受け皿になっているだけなんです」と話す。しかしモリーネさんの同僚で須藤さんを知るハイチ人のシスター、オシアン・ガブリエルさん(50)は言った。

「シスター・アキコのすごいところは行動力。思いついたことは、絶対に諦めず、必ず実現させるんです」

一方で、日本人とは育った環境も価値観も違うハイチ人と理解し合えないことも度々あったという。

80年ごろの話だ。男性の入院患者が「こんなまずい物食えるか」と、食事を放り投げた。須藤さんは「あなたのような患者を世話する気にはなれない。私は二度とこの病院には来ない」と怒った。実際、その日から病院に姿を見せなかった。

「わがまま言うからシスターが来なくなっただろ」。他の患者たちが怒りだし、男性を病院から追い出してしまった。実は、予定していた休暇を取っていたのだが、善意を踏みにじる男性の振る舞いは見過ごせなかった。男性の行方は分からないという。

終末医療、新たな目標

その行動力は、育った環境と無縁でないかもしれない。1927(昭和2)年、当時日本が植民地支配していた朝鮮半島の雄基(ゆうき)(現在の北朝鮮北部)で生まれた。父は穀物を日本に運ぶ貿易会社を経営していた。友人には朝鮮人やロシア人らがおり、「外国人への垣根は幼少からありませんでした」。

41年12月の太平洋戦争開戦の少し前、一家で父の実家のある広島県に戻り、44年に大阪女子高等医専(現関西医科大)に進学した。やがて迎えた敗戦。再び朝鮮に渡っていた父が生きて故国の土を踏むことはなかった。けれども兵庫県の叔父の支援で学業は続けられた。身を寄せた叔父一家は熱心なカトリック信者だった。しかし、須藤さんは全く興味がない。お祈りを、と言われても「信じてもないのにまねするのは偽善だ」とはねつけた。

そんな須藤さんの価値観を変える出来事が48年冬に訪れた。カナダのクリスト・ロア宣教修道女会が兵庫県内の古びた建物を買い取り、医療活動の準備をしていた。修道女会の相談に乗っていた叔父と、建物を訪れた時のことだ。2階に上がると、カナダ人のシスター数人が、泥や汚れがべっとりとこびりついた床をガラスの破片で丁寧にこすって落としていた。彼女たちの表情は明るかった。

「『死の病』と恐れられていた結核患者の世話をするために貨物船に2週間も乗ってやって来て、なぜこんなに楽しそうに働けるのか」。須藤さんは衝撃を受けた。自問自答するうち一つの答えにたどり着く。信仰。「神の導きがあるという確信があるからこそ、困難を困難と思わず全力で生きられるんだ。私もそういう生き方をしたい」

医師になった50年当時、結核は日本人の死因の第1位だった。迷わず結核専門医の道を選んだ。56年には28歳で修道女会に入会し、シスターになった。一方で、国内の結核病棟で経験を積んだ。その先にハイチがあった。

ハイチでの活動は昨年7月に体調を崩すまで36年間に及んだ。須藤さんに影響を受け、昨年から年に1回、シグノ療養所で結核患者の無料診断をしている医師の小澤幸子さん(40)は感嘆する。「長年ハイチで活動してきた忍耐力、精神力は本当にすごい。他の人はまねできない」

それ以上に驚かされたのが須藤さんの人生の選択だったという。カナダ、東京で療養し、そのまま一線から退くと思われたが、次の目標に据えたのは終末期医療だったからだ。その理由について、当の須藤さんは「私はやりたいと思ったことをやってるんです。ハイチでの活動もそうでしたし、ホスピスのそれも同じです」と淡々としたものだ。

ただ、小澤さんはこんな話をしてくれた。「シスター須藤はハイチで簡単に失われる命をたくさん見てきたことで、より近いところ、深いところで、亡くなる人に寄り添いたいと思うようになったのではないでしょうか」

窓から富士山が望めた。静岡県御殿場市の神山復生病院ホスピス病棟にあるラウンジ。6組の机と椅子が並んでいた。「ここで患者さんの話を聞くんです。どんな言葉を返したら良いのか、どんな相づちで聞けば良いのか。いろいろ勉強です」。担当医師からの依頼で、週2回ほど患者に向き合う。会話などを通して患者の苦しみを和らげる「緩和ケア」に当たっている。

須藤さんと一緒に病棟を歩いた。廊下にはハンセン病の元患者が創作した油絵や詩が飾られ、20ある部屋はすべて個室だ。部屋の一つをのぞくと高齢女性がベッドに座り窓の外を見ていた。「どんなことを思ってるんですかね。残される人のことか、これまでの人生のことか。ハイチでは死が迫っている患者さんを世話する余裕はありませんから、すごく新鮮なんです」

須藤さんと会うのは、昨年8月にハイチでの活動を取材するため、カナダ・ケベック州で療養中のところを訪ねて以来だった。須藤さんにハイチは恋しくないのか聞いた。「そりゃあ、恋しいですよ。今でもしょっちゅう考えます。でも、年齢と体調の問題で(修道女会の)本部が決めたことですから仕方ない」。自分に言い聞かせるように話した。そして、続けた。「でも、どこにいても、自分のベストを尽くすだけです。限りある命。生まれたからには、自分なりに全力で生きないともったいないです。私はそう思います」

須藤さんが精魂を傾けたハイチのシグノ療養所には現在、数十人の結核患者が入院生活を送り、いまもシスター・アキコの名前は語り継がれている……。そう伝えようと思った言葉は、前を見すえる笑顔にのみ込まれた。

 

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