余録 毎日新聞 2015年07月04日
昔、赤ちゃんが生まれるとすぐ母親でない女性が乳を与える習俗があった。「乳付(ちつ)け」と呼ばれ、赤ちゃんが男なら女の子をもつ女性が、女なら男の子の母親が授乳した。「乳付け親」と呼んだ。乳付け親は赤ちゃんにとって一生涯にわたる仮親(かりおや)となり、またその子とは「乳兄弟(ちきょうだい)」になったという。乳付け親には幸せな暮らしをしている女性が選ばれ、その乳には赤ちゃんに幸福をもたらす呪術的な力があると思われていたらしい(「世界大百科事典」平凡社)。乳付けはすたれたが、今も他人からもらい乳をしてでも母乳で赤ちゃんを育てたいと悩む母親が多いという。だがそこにはウイルス感染などのリスクがある。そんななか「新鮮な母乳」がインターネットで販売され、調べると仰天(ぎょうてん)の実態だったとの小紙の報道である。販売されていた「母乳」は少量の母乳に粉ミルクと水を加えたものらしく、栄養分は通常の母乳の半分、細菌量は最大1000倍にのぼった。業者は「飲料にするなら自己責任で」と説明していたが、母乳で育てたいと悩む購入者はわらをもつかむ思いだったようだ。ネットでの母乳販売は、安全管理された母乳バンクからもらい乳のできる欧米でも問題化した。まして、ようやく早産児のための母乳バンク運営が始まったばかりの日本である。ここは危ない販売の規制と、授乳をめぐる母親の悩みに応える対策を急がねばならない。乳付け親や抱き親など1人の赤ちゃんに多くの仮親がいて、地域みんなで子育てをした昔は遠くなった。相談相手もなく悩むお母さんに忍び寄るネットの「乳付け」の誘いにはくれぐれもご用心を。
Tags: 毎日新聞