木内幸氏死去 89歳

桑田真澄さん「野球観変わった試合」…木内幸男さん悼む
木内監督死去 「非常に残念」「悔しい」 県内から惜しむ声 /茨城
毎日新聞 20201125

取手二高や常総学院を率い、全国的に名将として知られた木内幸男さんの訃報に、県内関係者からも惜しむ声が上がった。

木内さんの教え子でもある常総学院の島田直也監督は「さっき聞いたばかりで気持ちの整理がつかない。僕の今後の監督としての姿を見てもらいたかった。だめなときに怒ってほしかった」と話す。

同校の佐々木力・前監督は「目標としていたが、超えられなかった存在。緻密な野球もそうだが、選手をその気にさせるのが本当にうまかった」と振り返る。23日にも面会したが意識はなかったという。「手を握って『がんばって』と伝えた。医師から『今日明日がやまだ』と伝えられたのだが……」と言葉が続かなかった。

同校の桜井平理事長は「非常に残念。島田監督の起用を相談したら、『強くなるよ』と褒めてくれた。次にセンバツに出たら、テレビでもいいから、見てほしかった。本当に悔しい」と話した。


 

木内監督死去 一夜明け 功績たたえる声 /茨城

毎日新聞20201126

取手二高や常総学院の野球部を率い、全国的に高校野球の名将として知られた木内幸男さんの訃報から一夜明けた25日、県内からは、あらためて功績をたたえる声があがった。

木内さんは1984年に取手二高の監督として県勢初の夏の甲子園大会優勝に導いたのを皮切りに、常総学院では2001年のセンバツ、03年夏の甲子園で全国制覇を成し遂げた。

大井川和彦知事はこの日開会した県議会本会議で「『木内マジック』は私を含め、県民に夢と『やればできる』という希望を与えてくれた」と冥福を祈った。

常総学院の松林康徳部長(35)は「まだ、いつでも会えると思っていた」とつぶやいた。03年に夏の甲子園で初優勝した時の主将。けがは多かったが、性格の明るさを買った木内さんが任命した。「どんな選手でも、輝く場所を作ってくれた」と話す。全員を公平に見るスタイルは今も引き継いでいる。「木内監督に見てもらっていると思って、頑張っていきたい」と話した。

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木内さんのもと、78年に取手二高で甲子園に出場、今は母校を率いる後藤賢監督(60)は、「まねできないくらい野球に情熱のある人だった」と振り返る。「選手の個々の能力を、たとえ高くなくても最大限に発揮させた。子供からしたらありがたいことだし、勝ち続けられた理由でもあったと思う。結果を出し続け、勝負の世界で生き抜いた。ご冥福をお祈りしたい」と話した。

取手二高時代の教え子で、常総学院では木内監督の下で2年間コーチを務めた、土浦日大の小菅勲監督(54)は、「選手時代はチーム愛を、コーチ時代は木内マジックと呼ばれる采配的な部分を学んだ。今の指導方針は木内DNAのたまもの」と話す。「体調が優れないと聞いていたが、見舞いに行けば『自分のチームがあるんだから』と叱られると思った。甲子園出場を決めて墓前に報告したい」と冥福を祈った。

木内さんは12年に取手市名誉市民の称号を贈られている。同市の藤井信吾市長は「日本全国においても名高く、穏やかな人柄から多くの人々に愛された。いつまでも壮健でいらっしゃると思っていただけに、ご逝去は残念でならない」とのコメントを発表した。

木内さんの葬儀の日程は、通夜は12月2日で一般参加は午後5時から6時半、告別式は3日正午、取手市市之代310のやすらぎ苑。喪主は長女の夫岡田誠さん。

論理的だった「木内マジック」
情を排し、情を動かす――。常総学院の野球部監督だった木内幸男さんの訃報に接し、脳裏に焼き付いている印象がよみがえってきた。新聞記者1年目の2003年夏。水戸支局で高校野球を担当し、木内監督にとって3度目の甲子園優勝までの道のりに密着した。決勝で対戦した東北(宮城)のダルビッシュ有投手(現米大リーグ・カブス)のような突出した選手がいたわけではない。その中で最大限の力を発揮するにはどうすればいいのか。いくつもの心得を目の当たりにした。変幻自在と言われる「木内マジック」だが、実際は論理的だった。

県大会を制した後の練習。誰が甲子園の土を踏めるのか? グラウンドに集まった生徒たちは緊張した面持ちで木内監督の言葉を待っていた。「外れるのは○○と○○……」。ベンチ入りする選手の名前を一人一人読み上げていくのかと思っていたが、夢舞台への「宣告」はあっけないほど一瞬で終わった。「3年生は最後の夏だから」。そんな「情実人事」も起こりそうな場面だが、情を排し、勝つ布陣に徹したように見えた。

木内監督は同年1月、新年最初の練習で引退を告げていた。新チームは「おとなしすぎる」と感じていた。夏の大会直前に言って動揺させるのではなく、早めに結束させようと考えたという。選手たちはここから、監督に花道を飾ってもらうことが目標になった。

「勝ちたい」ではなく「勝つ」。甲子園に出場したことに満足しがちな高校もある中で、常総学院は気迫が違った。ただ、悲壮感は感じられなかった。「やらされる」のではなく、強い主体性を持っていたからだと思う。甲子園の緊迫した場面でも守備は鉄壁で、次々とバントを成功させた。木内監督は「成功すると思って打席に立つからだ」と言った。

決勝の相手は、将来のプロ野球界で活躍が期待されるダルビッシュ投手を擁する強豪。木内監督は軽妙に「ヒットを打てば孫の代まで自慢できるぞ」と発破をかけた。「大物」の名前に圧倒されるのではなく、楽しむ雰囲気を作った。

木内監督は3度目の甲子園制覇で有終の美を飾る。優勝メンバーから同年のプロ野球ドラフト会議で指名されたのは遊撃手1人のみ。「超高校級」に対し、チームの最大限の力を引き出すことで頂点に立ったと感じた。

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