茨城新聞 70年近くの歴史を持つ取手競輪場。その歴史や関わり合う人々など、さまざまな角度から紹介する。
取手競輪今昔(1)
「おけら街道」 人の波、にぎわう路地 高度成長、バブル期活気
2018年3月9日(金)
昭和30年代ごろとみられる取手競輪場のスタンド(取手市埋蔵文化財センター提供)
「全てが懐かしいね。すっかり変わってしまったが、戦中、今の競輪場の外周にある道路の辺りを馬が走っていたのは覚えている」
取手市新町の海老原一嘉さん(88)は、当時に思いをはせる。取手競輪場は旧県営競馬場を改修し、1950年に第1回競輪が開かれた。戦後の高度経済成長の波に乗って多くの人でにぎわい、地域住民はもちろん、常磐線を利用して千葉県や都内から通う客も多かったという。
現在の競輪場の南門を出て坂を下ると、左側に見えるコンビニエンスストアの手前を駅の方向へ左折する細い路地がある。かつて「おけら街道」と呼ばれていた道だ。
競輪場の北側にある白山商店街で長年雑貨店を営んでいた岡部正敬さん(69)は「競輪で負けたお客さんはそのまま『おけら街道』を通って一直線に駅へ向かう。勝ったら白山商店街で一杯引っかける。今の人出とは比べものにならない」と振り返る。
当時、岡部さんの雑貨店は競輪場内でタバコを売るブースを出していたが、最盛期は1日で現在の金額に換算すると約40万円を売り上げた。また、積雪が多い地方の選手たちは冬場の練習場を取手に求めることも多く、周辺に下宿しては競輪場へ練習に通う姿も多く見られたという。
競輪場の盛り上がりが最高潮に達したのはバブル時期。昨年まで茨城支部所属の最年長選手として活躍していた永沢豊さん(61)は「大きなレースの出走前は地鳴りのような歓声が沸き上がって、自分たちも『やってやるぞ』という気持ちになった」と明かす。
2000年、同競輪場で初めてのG(2)レース「共同通信社杯」が開催されたこともあり、同年度の売上高は史上最高の約390億円を記録する。しかし、その後は景気の低迷もあって05年度以降は売上高が200億円を割る。さらに、11年度には東日本大震災の影響で約79億円まで落ち込んだ。
競輪を取り巻く環境は厳しさを増しているが、14年4月からは入場料を無料化。さらに16年度には初めてのG(1)レース「全日本選抜競輪」を開催したこともあり、同年度の売上高は約152億円と復調の兆しを見せている。
永沢さんは「今は(女子選手の)ガールズ競輪もあるし、茨城に(G(1)レースの常連の)スター選手もいる。もう一回、盛り上がってほしい」。現在、取手競輪では県や選手会、地元のアーティストらがさまざまな手法で集客を試みており、かつてのにぎわいを取り戻そうと、努力を続けている。
取手競輪今昔(2)
“戦場”を支える裏方 元選手、戸辺純一さん 芝の手入れ、修繕 丁寧に
2018年3月16日(金) 茨城新聞
競輪選手たちの戦場「バンク」。取手競輪場では、選手たちは地下通路を通り、「敢闘門」と呼ばれる入場ゲートからバンク内に入る。1周400メートルのバンクの内側は大半が芝生に覆われているが、その手入れを一手に任されているのが、取手市下高井の戸辺純一さん(70)。戸辺さんは2003年まで日本競輪選手会茨城支部の選手として活躍し、現在は嘱託職員として芝刈りのほか、器具の修繕や清掃作業など、さまざまな裏方の雑用を担う。選手時代から通算すると半世紀以上、取手競輪場とともに歩んできた。
03年から取手競輪場で働く戸辺さんの、最も大事な仕事はバンク内の芝刈り。月2回の手入れは一日中作業をしても3日かかる大仕事だ。特に夏場はバンクの温度が40度にも達するため、「天気予報を見ながら予定を立てるが、それでも熱中症に気を付けて休みながらの作業になる」とし、「選手時代はあまり気にしなかった芝だけど、今は他の競輪場の映像を見てもまず芝を見ちゃう」と笑った。その他、場内の植木の剪定(せんてい)や器具の修繕など、細かな裏方作業を行っており、取手競輪場の運営を陰から支えている。
同競輪場の宮本秀人広報マネジャー(53)は「芝刈り以外にも、朝礼の時はいち早く来て暖房を入れたり、所定の場所に置いておくだけでもいい出走表を観客に配り歩いたり、一つ一つの仕事がとても丁寧。こういった裏方の皆さんがいてくれるから競輪場はしっかりとお客さまをお迎えできる」と感謝している。
戸辺さんの選手としてのデビューは1967年。14歳離れた兄・弘さんが競輪選手として活躍していたことから、同じ道を選んだ。当時は競輪人気が右肩上がりの時代。「観客席に入りきらないほどお客さんがいっぱいだった」と振り返る。
当初は千葉支部に所属していたが、2年後に「練習環境が充実していた」ことから茨城支部に移籍。選手として第一線で活躍した。また、弘さんの息子でおいに当たる英雄さん(55)の師匠も務めており、英雄さんは茨城支部を代表する選手として現在も活躍を続けている。
取手競輪場で開催されるレースを見守ることも仕事の一つだが、弟子の英雄さんのほか、息子の裕将さん(46)、英雄さんのおいの山口翼さん(28)など、血縁関係の選手も多いため、「やはり茨城の選手が出ていると、どこかで応援してしまう」と明かす。
本来、嘱託職員の定年は70歳だったが、2年間の延長を打診された。「体力的に厳しい部分もあるが、(芝は)お客さんの目に必ず入る場所。何とか健康管理に気を付けてやっていきたい」。あと2年、きれいに整えた芝とともに、後輩たちの活躍を見守るつもりだ。
取手競輪今昔(3)
東京芸大と連携 アートで楽しさ演出 お化け屋敷、だまし絵も
茨城新聞 2018年3月23日(金)
取手競輪場の特徴として、真っ先に挙がるのが場内各所で見掛けられるアート作品だろう。東京芸大のキャンパスが取手市内に立地していることから、同競輪場は2005年ごろから同大と連携を深めており、場内各所には彫刻や壁画、だまし絵など、計20点の同大関係者による作品が展示されている。地域財産を生かすことで、新規顧客の獲得を目指している。
競輪場の一角に造られたお化け屋敷。中にはお化けに扮(ふん)した競輪選手が待ち構える。突然姿を見せたアトラクションを楽しもうと、入り口には長蛇の列ができる。1年に1回、毎年秋に行われている競輪とアートのコラボイベント「サイクルアートフェスティバル」の15年の一幕だ。
アートプロデューサーを務めているのが市内在住のアーティスト・傍嶋(そばじま)賢さん(39)。最初は旧メインスタンドの一部で「アートマーケット」と銘打ち、作品の展示販売を行ったが、その後はお化け屋敷のほか、だまし絵、場内に101匹描かれたウサギを探す「ラビットハンター」など、毎年一風変わったイベントを企画して訪れる人を楽しませている。
企画を考える上で傍嶋さんが「刺激を受けている」と語るのが、競輪場を管理運営する県自転車競技事務所の職員ら。「競輪を全く知らずに異動してくる方も多いので、かえって面白いアイデアを出す」という。
例えば、お化け屋敷は07年ごろ、当時の職員が「競輪場(の使われていないスペース)でお化け屋敷をやったら面白いのでは」と言い出したことがきっかけ。傍嶋さんは構想を温め、数年後に実現させた。「毎年のフェスは、歴代の担当者たちと一緒につくっている感覚」と明かした。
県自転車競技事務所の担当者は「アートとコラボレーションすることで、競輪場自体の魅力向上になり、新規顧客の獲得にもつながっていると思う」と手応えを感じている。
今年のフェスで何を行うかは未定。それでも、「(視察旅行先の)フィレンツェで、日本語の『名物もつ煮込みサンド』という看板を見つけて、競輪場でも販売できるのではないか」「『地元選手応援席』の脇で自分が延々と絵を描き続けたら面白いのでは」「これまでは一般の方にも分かりやすいアートイベントだったが、一度誰にも理解できない企画をやりたい」-など、アイデアは尽きない。
今月、出身地近くの中山競馬場を訪れた傍嶋さんは、若い世代や女性客の多さに驚いたという。「競輪にも多くの魅力がある。アートが、これまで競輪場に足を運ばなかった人たちへの一つの動機になればいい」と願い、新たな企画を練っている。
取手競輪今昔(4)
土田兄弟(石岡) 選手目指し競輪学校へ 「一緒に大舞台」誓う
茨城新聞 2018年3月30日(金)
敢闘門を通ってバンクへ入る(右から)土田栄二さんと武志さん=取手競輪場
この春、競輪選手を養成する「日本競輪学校」に、注目の兄弟が入学する。石岡市出身の土田栄二さん(21)と武志さん(18)の2人は、ともに自転車競技経験がない人のための「適性試験」に合格した。適性試験は経験者向けの「技能試験」よりも倍率が高く、今回は全国で69人受験して合格者は4人のみ。約10カ月の訓練を終えれば同期の兄弟選手が誕生するが、日本競輪学校によると、共に適性試験に合格して同期となる兄弟選手は史上初と見られるという。2人は、「いつか一緒に大舞台へ立ちたい」と意気込んでいる。
それぞれ、大学と高校では陸上部の短距離選手。自転車の競技経験はなかった兄弟の転機となったのは、2017年2月に取手競輪場で行われたG(1)「全日本選抜」だった。父・薫さん(60)に誘われて3人で見に行ったところ、「最後のスピード感やゴール前の攻防に心を打たれた」(栄二さん)2人。話し合って競輪選手を目指すことを決め、競輪選手会の茨城支部に連絡した。
2人が受験した「適性試験」は、自転車競技経験がない人を対象とし、自転車を扱う上での身体能力などで合否が決まる。「(適性試験は)非常に厳しいと聞いていたので、イチかバチかという気持ちだった」(栄二さん)、「2人とも受かるか、落ちるかのどちらかだと思った」(武志さん)という中で筋力トレーニングなどを重ね、試験に挑んだ。結果は2人とも合格。今回の適性試験は15倍以上の倍率だったが、見事に難関を突破した。
現在、5月の入学に向けて自転車に乗る訓練を続けている。栄二さんは「(経験のある)技能試験組と比べて、当然差があると思っている。彼らを食ってやる気持ちで頑張りたい」と話し、武志さんも「未経験者だからと言って絶対に負けたくない」と闘志を燃やしている。
2人の同期となる115期は70人が合格し、うち茨城支部に所属する予定の選手は6人。日本競輪選手会茨城支部の戸辺裕将支部長(46)は「仲間たちと共に切磋琢磨(せっさたくま)してしっかりと卒業し、茨城を盛り上げてほしい」と後輩たちにエールを送った。
順調ならば、来年3月に卒業し、7月ごろにデビューする見込み。栄二さんは、「いろいろな人の支えでここまで来られた。いつか、あの全日本選抜のような大舞台に立てたらいい」、武志さんは「陸上をやっていた頃から兄の存在は目標だった。競輪界でも2人で上を目指していきたい」と、活躍を誓った。