ゆめまっぷの会始動

9月 8th, 2014

ゆめまっぷの会事務局 Café 温々亭でのミーティング

*星あかりの反省

*Christmasイベント開催に向けて

*ゆめあかり3.11「続ける祈り繋がる想い」 準備会

まずは、500円ランチとコーヒーで

ご馳走様~DSC_0471

harumi さんとともに

9月 7th, 2014

雨の日曜日

たまった雑誌に目を通す。

こんな時間も必要ね。
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「87歳の新人です」ハイチのマザー・テレサ

9月 7th, 2014

毎日新聞 20140907

ストーリー ハイチのマザー・テレサ 87歳医師の再始動

 夏の青空が広がった。静岡県御殿場市の富士山のふもと。125年前にフランス人宣教師が開いた神山(こうやま)復生病院は、イチョウやカエデが茂る広大な森林に囲まれるように建っていた。

日本最古のハンセン病療養所には70〜90代のハンセン病の元患者7人が暮らし、ホスピス病棟には余命6カ月以内と診断されたがん患者約20人が人生最後の日々を過ごす。病院近くでバスを降りると、「ウィンプル」と呼ばれる白色の布をかぶり、首から木製の十字架を下げた小柄な女性が駆け寄ってきた。「お久しぶりですね。ほら、見てください。もう走れるようになったんですよ」。ウオーキングシューズを履いた足で小走りを繰り返した。医師で修道女の須藤昭子さん(87)だった。

1年前、カナダ・ケベック州にあるクリスト・ロア宣教修道女会本部で会った時は手押し車がなければ歩けないほどやつれていた。「負けてたまるかって。リハビリを頑張りました」

ハイチのマザー・テレサ−−。日本のボランティア関係者らは畏敬(いけい)を込めてそう呼ぶ。西半球の最貧国といわれる島で、体調を崩した昨年7月までの36年間にわたって専門医として結核患者の治療や貧困対策に当たってきた。けれども、須藤さんはかぶりを振った。「私は他人を憎らしいと思うこともあるし、聖人ではない。美化しないでほしい」

その須藤さんは今年6月、神山復生病院にやってきた。療養のためではない。余命宣告された患者の苦痛を和らげる終末期医療に携わるためだ。「87歳の新人です」。口元を緩めた。「10年ほど前『治療をしない治療』があると聞いて興味を持ち、いつか関わりたいと思ってました」

生きられる人を助ける医療から、生きられない人を助ける医療の道へ。

「死が間近に迫ると、人は何を考えるんでしょうか。ハイチでいっぱい亡くなる人を見てきたけど、これだけは分かりません。勉強中です」

再始動を誓う口調は力強かった。ハイチでもそうだったのだろう、140センチほどの全身が「信念」の塊のようだった。

「死の病」に献身36年

窓にひびの入った日本車が穴の開いた道路を行き交い、路上では裸足のストリートチルドレンたちが物乞いする。カリブ海の島国ハイチ。旅立った梅雨時の日本とは違って、はるかに強い日差しが照りつけていた。

人口は約1013万人、四国の約1・5倍の広さで、多くの国民が1日1ドル以下で生活する。2010年1月には大地震に見舞われ、約32万人が死亡した。それから4年がたつというのに、首都ポルトープランスには、倒壊した建物のがれきが大量に残されていた。

ポルトープランスから国道を走ること約1時間半。海沿いの町レオガンに結核専門病院「国立シグノ結核療養所」はある。昨年7月までの36年間、医師でカトリック修道女の須藤昭子さん(87)が半生をささげてきた病院だ。東京ドーム1個分の広大な敷地に病棟や診療所など6棟の建物が並ぶ。

世界保健機関(WHO)の07年の集計では、ハイチの結核患者数は人口10万人当たり306人。日本は21人、米国は4人、隣国のドミニカ共和国でも69人であることを勘案すれば、ハイチの罹患(りかん)率は高いうえ、「いまだ死に至る病として恐れられている」(ハイチの医療関係者)。

シグノ療養所でとりわけ大きく立派なコンクリート造りの平屋の病棟があった。私が訪ねたときは、ベッドなどの医療設備が届いておらず患者はいなかった。事務長のハイチ人シスター、エブリン・モリーネさん(62)が案内してくれた。

「療養所は1948年に開院しました。大地震で病棟は倒壊してしまったのに、ハイチ政府は何もしてくれない。シスター・アキコ(須藤さん)は、プレハブで診療していたんです。この病棟は彼女が日本政府と交渉して支援を引き出し、建ててもらったんです」

「アキコ」と呼ぶ声に親しみがこもる。モリーネさんは須藤さんと30年以上ともに活動してきた。

「アキコの献身がなければ、今のシグノ病院はなかったでしょう」

印象的な出来事があったという。04年、独裁的な政権運営が批判されていたアリスティド大統領(当時)と、退陣を求める武装集団との戦闘が激化し、ハイチは事実上内戦状態に陥っていた。路上には遺体が転がり、略奪が相次いだ。外国人が大挙して出国する中、モリーネさんが須藤さんに帰国するよう勧めると、こんな答えが返ってきた。

「私が離れたら誰が患者さんの世話をするの」

モリーネさんは言った。「シスター・アキコを『ハイチのマザー・テレサ』と呼ぶ人がいますけど、私もそう思います。尊敬できる人でした」

「ひどい状況でした。想像をはるかに超えてね……」。須藤さんはそう独りごちながらハイチでの日々を語り始めた。ハイチの療養所で活動を始めたのは1977年12月。50歳になっていた。

その前年、カナダ・ケベック州にある修道女会の本部でフランス語を学んでいた。ある日のこと、新聞記事が目に留まった。「ハイチ 成人の死亡原因トップは肺結核」。「日本の結核対策をハイチに持ち込めば状況を改善できるかもしれない」。結核専門医の須藤さんはハイチへの派遣を修道女会に申し出た。「ハイチは四国よりちょっと大きいくらいだから簡単に改善できるだろうって軽く考えちゃって。おっちょこちょいなんですよ。行ってみたら、現実は大違いでした」

ハイチ政府から提案されたのがシグノ療養所での勤務だった。「療養所なんて名ばかりで、患者さんの『死に場所』だった。治療せずに隔離していただけ」

「アジール」(避難所)と呼ばれていた敷地には、結核患者をはじめ、ホームレスや精神を病んだ人たち、障害者など行き場のない人たち数百人が集められていた。毎週土曜日になると、小型トラックに30人ほどの患者がぎゅうぎゅう詰めにされてポルトープランスからやって来た。「トラックが到着すると、積み荷のように運転手が患者を放り投げるんです。びっくりして目を覆いましたよ」

療養所には電気や水道、電話はなく、ベッドすらない。やせ細った患者がむしろに寝かされているだけだった。抗結核剤が国から支給されていたが、看護師が勝手に売り払い、療養所には残っていなかった。「あるのは2本の注射器と5本の針だけ。肝心の医師は結核への感染を怖がって病院にほとんど来ないんです」。患者の遺体は段ボールに入れて空き地に埋められていたという。

「ハイチに来たのは間違い。医師としてできることはない。日本に帰る」。来てまだ3週間だったが、ひどい状況に音を上げかけた。そんな時、須藤さんを思いとどまらせたのは1本の電話だった。

「カナダからあなたに電話がありましたよ。この番号に折り返してください」。帰宅しようとした須藤さんを門衛が呼び止めた。心当たりがなかったが、電話局に行き、国際電話をかけた。相手は見ず知らずのカナダ人女性だった。

「あなたのためにお金を集めました」。女性は須藤さんがハイチに出発する際、カナダで開かれた「派遣式」で、須藤さんの講演を聴いていた。心を動かされた女性が知人から寄付金を募っていた。「応援してくれる人がいるんだから諦めずに頑張らなきゃって。私って単純なんです」

しばらくして、カナダから寄付金が届いた。須藤さんはまず、病院の設備を改善するために動いた。カナダに戻って中古のベッド200台を買い、コンテナでハイチに送った。日本の自動車会社に頼んでライトバン2台を寄付してもらった。大阪に行き、大学教授の友人と一緒に薬問屋を回って薬を集めた。療養所の食事は須藤さんが集めた寄付でまかなった。

水道がなく、下水で体を洗っていた患者らのために井戸を掘った。「機械がないので、ハイチの人たちと一緒に掘りました。30メートルほど掘って水が出てきた時は本当にうれしくて。みんなで輪になって踊っちゃいました」

活動は病院の外にも広がった。首都ポルトープランスに隣接するシテソレイユ。狭いエリアに20万〜30万人がひしめく西半球最大級のスラムだ。治安もいいとは言えない。けれども須藤さんは何年もの間、退院後の患者の様子を見にこの地に通った。

須藤さんの活動は次第に知られるようになり、日本やカナダで支援の輪が広がっていった。「患者の死に場所」だった療養所は80年代半ばになると、ハイチでも屈指の設備を備えた病院施設に変わっていた。

須藤さんは「私だけでは何もできませんでした。私は善意の受け皿になっているだけなんです」と話す。しかしモリーネさんの同僚で須藤さんを知るハイチ人のシスター、オシアン・ガブリエルさん(50)は言った。

「シスター・アキコのすごいところは行動力。思いついたことは、絶対に諦めず、必ず実現させるんです」

一方で、日本人とは育った環境も価値観も違うハイチ人と理解し合えないことも度々あったという。

80年ごろの話だ。男性の入院患者が「こんなまずい物食えるか」と、食事を放り投げた。須藤さんは「あなたのような患者を世話する気にはなれない。私は二度とこの病院には来ない」と怒った。実際、その日から病院に姿を見せなかった。

「わがまま言うからシスターが来なくなっただろ」。他の患者たちが怒りだし、男性を病院から追い出してしまった。実は、予定していた休暇を取っていたのだが、善意を踏みにじる男性の振る舞いは見過ごせなかった。男性の行方は分からないという。

終末医療、新たな目標

その行動力は、育った環境と無縁でないかもしれない。1927(昭和2)年、当時日本が植民地支配していた朝鮮半島の雄基(ゆうき)(現在の北朝鮮北部)で生まれた。父は穀物を日本に運ぶ貿易会社を経営していた。友人には朝鮮人やロシア人らがおり、「外国人への垣根は幼少からありませんでした」。

41年12月の太平洋戦争開戦の少し前、一家で父の実家のある広島県に戻り、44年に大阪女子高等医専(現関西医科大)に進学した。やがて迎えた敗戦。再び朝鮮に渡っていた父が生きて故国の土を踏むことはなかった。けれども兵庫県の叔父の支援で学業は続けられた。身を寄せた叔父一家は熱心なカトリック信者だった。しかし、須藤さんは全く興味がない。お祈りを、と言われても「信じてもないのにまねするのは偽善だ」とはねつけた。

そんな須藤さんの価値観を変える出来事が48年冬に訪れた。カナダのクリスト・ロア宣教修道女会が兵庫県内の古びた建物を買い取り、医療活動の準備をしていた。修道女会の相談に乗っていた叔父と、建物を訪れた時のことだ。2階に上がると、カナダ人のシスター数人が、泥や汚れがべっとりとこびりついた床をガラスの破片で丁寧にこすって落としていた。彼女たちの表情は明るかった。

「『死の病』と恐れられていた結核患者の世話をするために貨物船に2週間も乗ってやって来て、なぜこんなに楽しそうに働けるのか」。須藤さんは衝撃を受けた。自問自答するうち一つの答えにたどり着く。信仰。「神の導きがあるという確信があるからこそ、困難を困難と思わず全力で生きられるんだ。私もそういう生き方をしたい」

医師になった50年当時、結核は日本人の死因の第1位だった。迷わず結核専門医の道を選んだ。56年には28歳で修道女会に入会し、シスターになった。一方で、国内の結核病棟で経験を積んだ。その先にハイチがあった。

ハイチでの活動は昨年7月に体調を崩すまで36年間に及んだ。須藤さんに影響を受け、昨年から年に1回、シグノ療養所で結核患者の無料診断をしている医師の小澤幸子さん(40)は感嘆する。「長年ハイチで活動してきた忍耐力、精神力は本当にすごい。他の人はまねできない」

それ以上に驚かされたのが須藤さんの人生の選択だったという。カナダ、東京で療養し、そのまま一線から退くと思われたが、次の目標に据えたのは終末期医療だったからだ。その理由について、当の須藤さんは「私はやりたいと思ったことをやってるんです。ハイチでの活動もそうでしたし、ホスピスのそれも同じです」と淡々としたものだ。

ただ、小澤さんはこんな話をしてくれた。「シスター須藤はハイチで簡単に失われる命をたくさん見てきたことで、より近いところ、深いところで、亡くなる人に寄り添いたいと思うようになったのではないでしょうか」

窓から富士山が望めた。静岡県御殿場市の神山復生病院ホスピス病棟にあるラウンジ。6組の机と椅子が並んでいた。「ここで患者さんの話を聞くんです。どんな言葉を返したら良いのか、どんな相づちで聞けば良いのか。いろいろ勉強です」。担当医師からの依頼で、週2回ほど患者に向き合う。会話などを通して患者の苦しみを和らげる「緩和ケア」に当たっている。

須藤さんと一緒に病棟を歩いた。廊下にはハンセン病の元患者が創作した油絵や詩が飾られ、20ある部屋はすべて個室だ。部屋の一つをのぞくと高齢女性がベッドに座り窓の外を見ていた。「どんなことを思ってるんですかね。残される人のことか、これまでの人生のことか。ハイチでは死が迫っている患者さんを世話する余裕はありませんから、すごく新鮮なんです」

須藤さんと会うのは、昨年8月にハイチでの活動を取材するため、カナダ・ケベック州で療養中のところを訪ねて以来だった。須藤さんにハイチは恋しくないのか聞いた。「そりゃあ、恋しいですよ。今でもしょっちゅう考えます。でも、年齢と体調の問題で(修道女会の)本部が決めたことですから仕方ない」。自分に言い聞かせるように話した。そして、続けた。「でも、どこにいても、自分のベストを尽くすだけです。限りある命。生まれたからには、自分なりに全力で生きないともったいないです。私はそう思います」

須藤さんが精魂を傾けたハイチのシグノ療養所には現在、数十人の結核患者が入院生活を送り、いまもシスター・アキコの名前は語り継がれている……。そう伝えようと思った言葉は、前を見すえる笑顔にのみ込まれた。

 

現代的つるしびなを目指す那珂町

9月 7th, 2014

つるしびな制作学ぶ 那珂、展示準備へ6講座

茨城新聞 20140907 動画ニュース

来年のひなまつりシーズンに向け、展示する飾り作りを始めるため

、「那珂つるしびなの会」(鴨志田和枝会長)は5日、

同市飯田のふれあいセンターよしので、「つるしびな講座」の開講式を開いた。

約半年をかけて準備を進める。

つるしびな講座は市中央公民館、総合センターらぽーるなど4会場で6講座が開かれる。

受講するのは108人で、講師は杉森公枝さん、関愛子さん、加藤美知子さんの3人が務める。

各講座とも10回開催し、藤の花やヒマワリ、節句人形などを作る予定だ。

開講式で、鴨志田会長は

「今年は現代的なまつり・フェスティバルを切り口に作品制作を進めたい」とあいさつ、

つるしびな制作を多くの人に伝え、広めていこうと呼び掛けた。

つるしびなは、邪気を払い、延命長寿を願う飾り。

那珂のつるし飾りは願う内容を飾りの形に託すのが特徴で、

お金が集まるようにと巾着を取り付けたり、災いが去るようにとサルを作ったり、

虫除けの効能がある唐がらしを布の端切れで作ったりする。

今年2月から3月上旬にかけて、

曲がり屋など同市内9会場で開かれたつるしびなの展示には、

延べ3万5千人が見物に訪れたという。

 

竜ケ崎うたごえサークルに参加しませんか

9月 7th, 2014

散歩道:うたごえ喫茶で交流 龍ケ崎 毎日新聞 20140907日

生バンドの伴奏で好きな曲を歌う「街のうたごえ喫茶」が6日、

龍ケ崎市下町の「おくらホール」で開かれた。

県南や東京都内から参加した40〜80代の約40人が美声を響かせ、合唱して楽しんだ。

主宰の「竜ケ崎うたごえサークル」代表の若井美恵子さん(取手市)は

「シニア世代の交流と心の栄養になれば」とあいさつ。

3部構成で、第1部の司会兼ギター伴奏を務めた取手市の会社経営、

鈴木信成さん(54)は「世代を超えて一緒に歌うのが楽しい」と話していた。

奇数月の第1土曜に同所で開催している。

原発事故後放射性雲拡散状況 取手市 

9月 6th, 2014

福島原発事故 1週間後にも放射性雲 東北、関東へ拡散

毎日新聞 20140905夕刊

原発事故後2回の放射性プルーム拡散

東京電力福島第1原発事故後、上空に巻き上げられた放射性物質の雲状の塊

「放射性プルーム(放射性雲)」が、これまで知られていた

2011年3月15〜16日に加え、約1週間後の20〜21日にも、

東北・関東地方に拡散していく状況が、原子力規制庁と環境省による

大気汚染監視装置のデータ分析から裏付けられた。

1回目の放射性雲の影響で高くなった空間線量に隠れて、

2回目の放射性雲が見逃されていた地域もあった。

専門家は「データは住民の初期被ばく量を正確に見積もるのに役立つ」とみている。

放射性雲の拡散はこれまで、「緊急時迅速放射能影響予測システム」(SPEEDI)を使った

コンピューター計算に各地の空間線量や航空機による観測データを突き合わせて推定してきた。

今回、環境省が各都道府県に設置している自動車の排ガスなどを常時監視する装置に着目。

東京大大気海洋研究所や首都大学東京などに依頼し、

大気中に浮遊するちりを1時間ごとに捕まえたろ紙を9都県約90カ所の測定局から回収して、

3月12〜23日分の放射性物質濃度を調べた。

その結果、福島市の一つの測定局では15日夜、

放射性セシウム137と134の濃度が1立方メートルあたり最大計45.5ベクレルを計測した。

16〜19日も、原発から放射性雲が出続けていた考えられるが、

西風で太平洋側に運ばれたため、大気中濃度は上がらなかったらしい。

その後、風向きが変わり、20日午後3時に同計104.1ベクレルに高まり、

その状況は21日朝まで続いた。

雨が降った15日は放射性物質が地表や家屋に沈着し、

空間線量が1時間あたり20マイクロシーベルト程度まで急上昇したため、

放射性雲が飛来したことが広く知られているが、雨が降らなかった20〜21日は、

既に高くなっていた空間線量計の値が目立って上昇しなかったため、

放射性雲が見過ごされてきたと考えられる。

関東地方では、15日と21日の2回、帯状に高濃度の放射性雲の拡散が確かめられた。

特に21日朝は茨城県南部や千葉県北東部で放射性セシウム濃度が急上昇。

その後、東京湾北東沿岸部へと南西に移動した。

その間、雨で沈着し、各地で「ホットスポット」と呼ばれる

局地的に線量の高い場所を作ったとみられる。

20140905-m夕刊

お月見前前前夜祭り

9月 6th, 2014

むか~しむかし1

卵料理は、兄が黄身で私が白身と、なぜか決まっていました(笑)

今は、子供が白身で私が黄身?

白身の方が好きなんだけどな?

9月9日はお月見だね。

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むか~しむかし2

学生時代のお弁当の定番はピーマン炒め。

冷めても美味しかったなぁ。DSC07939

セブンイレブンさんとのお付き合いで大量に届いたおでんセット。

大根も崩れないようにパックされているのに(@_@;)

涼しくなったらいただきま~~す。

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男の気持ち ありがたい年金

9月 6th, 2014

男の気持ち ありがたい年金 毎日新聞 20140906

「年金(の受給額)が少ない」とか「消費税は上がったのに、

年金は減った」という不満の声は多い。

しかし、私は「年金はありがたい」と思っている。

現職当時、私は家庭のことはほとんど無関心で、

子育て、買い物、炊事はもちろん、家庭菜園、庭木の手入れや雑草の処理など

すべて妻がやっていた。

退職後は家の中でラジオ(テレビはあまり見ない)を聞き、新聞を読み、

外出するのは図書館、書店、買い物(妻に頼まれたものも含め)に出かける程度。

一方、妻はこれまでと同じ仕事をこなしている。

そのような勝手ができるのも年金をもらっているから。

もちろん年金は少ないよりは多い方がいいし、消費税など出ていくものは少ない方がいい。

しかし、そんな都合のいいことは望めない。

私は2カ所の病院にそれぞれ数週間に1度、治療に行っている。

その支払いはいつも500円以下。「これでは健保も赤字だな」と思ってしまう。

何事についても、不満を言えば切りがない。

しかし、現状で特段困ることはない。

「満足度」なる考え方があるそうである。

しかし、満足の感じ方は人によって違う。

「預金が50万円あればうれしい」という人もいる半面、

「1000万円あっても、もっとほしい」と思う人もいるだろう。

何事も感謝の気持ちで過ごしたい。

放課後デイサービス『こどもプラス』取手

9月 6th, 2014

放課後デイサービス『こどもプラス』が動き出します。

発達が気になるお子さんが、放課後や夏休みなどの 長期休暇中に通う総合教室です。

学校教育、保護者、医療機関と協力して、子供の自立を促すとともに、

放課後等の居場所づくりを行っていきます。

スタッフ募集中

すてき龍ヶ崎の紹介

9月 6th, 2014

龍ヶ崎田んぼアート

まいりゅうくんの登場です。

本日だけの鑑賞用見晴らし台?

この場所も定番になりそうです。

田んぼアートの場所は、龍ヶ崎市羽原2236

昨年の様子 Happyrecipe

写真は、龍ヶ崎住人さんよりお借りしています。

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まいりゅう:巨大な姿出現 龍ケ崎の田んぼ、稲の芸術実る 刈り取り作業参加者募集

毎日新聞 20140914

 

龍ケ崎市羽原町の田んぼに、同市公式キャラクター「まいりゅう」の巨大な姿が出現した。品種の異なる稲を植え、田んぼに絵柄を描く「田んぼアート」(幅25メートル、奥行き80メートル)で、面積は20アール(2000平方メートル)。鑑賞会は終了したが、28日に行われる稲刈り作業の参加者を募集中だ。

 

NPO法人「龍の杜(もり)」(同市)と同「とね」(利根町)の2団体が共同制作。田植えの段階から、稲の品種の違いによる色合いでこの絵柄になるように、黄金色の「あきたこまち」や赤米、黒米など5種の稲を作付け。無農薬、無肥料で栽培したという。

 

収穫は、鎌で刈り取り、稲束を結わえ、天日干しにするまでを共同作業で進める。「龍の杜」代表理事の金沢直子さん(51)は「子どもを含むいろいろな世代がかかわって、日本の文化である稲刈りを体験し、楽しんでいただければ」と呼び掛けている。初心者歓迎。当日は午前9時から正午まで。昼食代500円。申し込みは前日までに「龍の杜」(090・1692・5819)へ。雨天の場合は10月5日に延期する。

 

 

 

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1 (3)明日は龍ヶ崎アボンリィー」でマルシェです。

Marche de Anne Plus

アンティーク雑貨好きの方は是非お出かけください。

● Joyce cafe 自家焙煎 の コーヒースタンド

● pate pate (パータパテ)キッシュ屋

● muku バターを使わない ナチュラルな焼き菓子・パン

● マツユキ ベーグル 白神こだま酵母の手作りベーグル

などのfoodも出店されます。