IHクッキングヒーターの手入れ どのようにされていますか?
どうしてもある部分だけが輪染みになって汚れてしまいます。
クリームクレンザーとサランラップでひたすら磨くだけ。
傷もつかず、ピッカピカになりますよ。
常陽新聞20130110
取手交響吹奏楽団
第11回定期演奏会開催
日時 1月20日(日)
開場 13時30分入場無料
開演 14時
会場 取手市民会館大ホール
指揮 荒張健司 郷恵子
客演指揮 高野光章
*イーストコーストの風景
*マリアの七つの悲しみ
*ジャパニーズ・グラフィティⅤ
問 坂本08054776248
取手駅西口事業:市長ら幹部に弁済求め監査請求 土地売却で市に損害 毎日新聞2013年01月09日 取手市が進めている「ウェルネス・タウン取手の創造」事業で「低価格の土地売却で市に5900万円の損害を与えた」として、同市の元市議や市民ら7人が8日、藤井信吾市長と市都市整備部長、市中心市街地整備課長を相手取り、弁済を求める住民監査請求を市監査委員に提出した。 請求では、取手駅西口近くの平均土地価格は1平方メートル当たり約17万9000円で、下落率を考慮すると同約16万1000円となり、同市内の眼科医への土地(約459平方メートル)売却額は、情報が開示されていないが、同約14万4900円と推察され、実際の売却額約4200万円との差は約2400万円になると指摘。さらに市がこの土地近くで行った土盛り工事費約3500万円と合わせると、同市が被った損害額は約5900万円に上る−−などとしている。 同事業は健康や医療などの充実を目指し、同駅西口を再開発するプロジェクト。民間活力なども導入し市民の健康を増進しながら、駅周辺の活性化を図る目的で工事が進められている。 賀詞交歓会 茨城新聞20130109
ゆめあかり3.11「続ける祈り繋がる想い」 in 水と緑と祭りの広場
チラシ用の撮影会・・・だったのですが、
静かだった公園内に風が吹き出し
キャンドルを模ったはずが・・・お歯黒さんになってしまい
急きょ中止に(笑)
お天気には勝てません。
キャンドルが燃え尽きてしまい、小さなローソクで代用の試験点灯かいでした。
時代を駆ける:鳥越俊太郎/1 完走「自分をほめたい」 毎日新聞 2013年01月08日
テレビでもおなじみのジャーナリスト、鳥越俊太郎さん(72)が、昨年12月9日のホノルルマラソンを完走した。古希(70歳)を過ぎたランナーはいまや珍しくないが、7年半前に大腸がんが見つかってから4回の手術を受けてきた、「ステージ4」のがん患者でもある。
《歓喜のゴールだった》
ゴールした瞬間にまず思い出したのは、アトランタ五輪銅メダリストの有森裕子さんが言って有名になった「自分をほめたい」というせりふでした。私も今回だけは自分をほめたいと思いましたよ。本当によくやったと。何回もやめようかと、やめたらいいだろうな、と思いましたから。
体はぼろぼろでした。足の裏、指のマメが破けて靴底に血がたまっていたようだったし、ふくらはぎや腰のひどい痛みはずっとひかない。でもなぜか頭はハイテンション。ダメな下半身を元気な上半身で引っ張っていたという感じでしたね。42・195キロはやっぱり過酷です! 走ってみて分かりました。
《完走する自信は、もちろんあった》
それでも実は、日が近づくに連れて弱気になってきてました。7年前に大腸がんの手術をしたけれど、あの時はなんだか遠足にでも行くような気持ちでした。ところが、今回は前日、プレッシャーでどきどきで。
《マラソン挑戦は昨年の初めに決めたという》
古希を過ぎて、「残り時間はもうあまりない」と、特にがんになってから痛切にそう思うようになりました。ならば毎年、それまでやったことのないことに挑戦していかないと人生楽しくないだろうと。まずは体を鍛えるジム通い。それからダンス。人生初のパーマもかけてみましたが、これはまったく似合わなくて失敗でしたね(笑い)。その流れで12年のテーマを探していて偶然、何かの記事で「ホノルルマラソン」を見つけて、これだと決めました。
この大会、時間制限がないのがいい。フェイスブックに書いたらどっとみんながアドバイスをくれて、TBSも取材するというし、もう引くに引けなくなっちゃった。
時代を駆ける:鳥越俊太郎 2 「挑戦」で人生を楽しく 毎日新聞 2013年01月09日
《ジム通いは2年8カ月になる》
毎日新聞記者時代の皇居1周(約5キロ)。これが人生で走った最長距離でした。運動なんてほとんどやってこなかった。それが週に3回、2時間みっちり。食事を含めた指導を受けて続けてます。だんだん筋肉がついてくるのが分かる。70歳超えても鍛えれば筋肉はつくもんなんだね、これは喜びであり、驚きですよ。歩くのが楽になったし、飛行機に乗っても頭上の収納棚に手荷物を楽にひょいって感じで入れられるようになりました。
《ホノルルに向けて、長距離のトレーニングも行った》
一度、マラソンの距離感を体験したいと思って、東京・品川の事務所から自宅のある小金井市まで歩いてみました。お茶やアイスクリーム、飲んだり食べたりしながらですけど、40キロ弱。それから、1周約2キロの駒沢公園(東京・世田谷)を10周。あの2倍か、という感触は持って臨みましたが、本番はやはり後半がきつかった。ダイヤモンドヘッドのだらだらと続く上り坂とか。とにかく完走だけが目標でしたよ。
《「達成する、ということがお好きで、クリアしてすぐ次の目標をみつけようとされます。気持ちが若いですね」。東京・六本木のジム「トータル・ワークアウト」のパーソナルトレーナー、池澤智さんの言葉だ》
新しいことに挑戦していかないと、残りの人生、楽しくないだろうな、と思う。達成できたら快感が得られるし、やれなくてもチャレンジするというだけで、気持ちが奮い立たされることになる。その気持ちが大事なんですよ。
でも、僕はね、努力っていうのが嫌いなんです、昔から。こつこつまじめに、イヤなことなのにやらなきゃならないってのが大嫌いなんです。僕は好奇心が旺盛だから、好きなことだけをとことんやっていく。それが僕の人生でした。だから、いままで悲観的になったことは一度もないんです。能天気ともいえるけれど、常に楽天的。がんになったときでさえ、半分以上は「しめた!」って思ってましたから。「しめた、これでがんの本が書ける」って。
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時代を駆ける:鳥越俊太郎/3 がんを淡々と受け止め 毎日新聞 2013年01月10日
《ホノルルマラソン前日の参加者セミナーに特別出演。がん患者としての苦労を吐露する場面もあった》
がんの手術で直腸を約20センチ切除しました。直腸は便をためておくところで、ないとすぐ便が出てきてしまう。だから、前の日は1日絶食です。東日本大震災の被災地を取材したときもそうでした。被災地にはトイレなんかありませんから。こんな人はマラソンなんか出ちゃいけないんでしょう。でも、出たい。苦しいことがあっても、それを乗り越えてみたかった。
《最初のがんは05年に見つかった》
トイレで出血があって、徐々に異変は感じていました。内視鏡検査をやってもらって、自分でも見ましたよ、3センチ大の腫瘍です、ぎょっとしました。ああ、がんだったんだと。ぼうぜんとしましたが、ショックはそんなになかった。入院の日にテレビで普通に公表できましたからね。07年に肺へ、それから09年には肝臓に転移がみつかり、4回目は切開手術でした。でも性格なのかな、くよくよしたってしょうがないと思った。だって人間100人いたら、100人死ぬ。もちろん症状や進み具合はさまざまだし、いきなり末期がんがみつかる場合もあるから一概には言えないが、私はがんである事実を受け止めて、一番いいと思われる過ごし方を考えようと思いましたね。
《仕事部屋の机には文庫の「方丈記」や、東京大空襲の焼け跡を歩いて書かれた堀田善衛の「方丈記私記」が置いてある。死を淡々と受け止めようとする心の背景には、少年時代の体験がある》
故郷の福岡県吉井町(現うきは市)で小学6年生のころだったか。友達とお寺の裏の墓地で鬼ごっこかなにかで遊んでいて、隠れていた墓のフタ石がずれていた。思わずのぞき込むと、茶色い素焼きのつぼの中に、白い骨が見えた。衝撃だったね。わぁーって叫び声を上げて走り出したんだけど、「死」というものを明確に意識したんだ、そのとき。人間、じたばたしたって最後は骨だって。それから、僕の人生には「所詮」って言葉が付きまとう。だから、「方丈記」なんですよ。
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時代を駆ける:鳥越俊太郎/4 真珠湾で考える平和 毎日新聞 2013年01月11日
《大会前々日の昨年12月7日、鳥越さんはオアフ島内の真珠湾に行った。71年前のこの日、日本軍の奇襲攻撃があった。沈没したままの米戦艦の上に「アリゾナ記念館」が建てられている。湾を望むメモリアルゾーンにたたずんだ》
(展示されている)戦艦アリゾナのいかり下に「おれたちは忘れんぞ」と刻んである。すごいね。アメリカ人にヒロシマ・ナガサキの話をすると、必ずこのパールハーバーを持ち出してきます。でも、犠牲者数のケタが違うし、何よりこっちは軍施設だもの。市民を巻き込んだ無差別攻撃とは明らかに違いますよ。
《京都大学では国史学を学んだ。特に明治期に興味があるのは、日本が維新以後、日清、日露、日中、太平洋の4度の戦争を戦ったからだ》
先日、製本された自分の卒論を手に入れました。副題が「明治期に於(お)けるブルジョワ民族主義」だって! 自由民権運動が弾圧されていく過程を書いたはず、もう内容は忘れてしまいましたが。あるとき、ふと気づいた。明治元(1868)年から数えて昨年(2012年)は144年、そして僕は72歳ですから、日本の近代史のちょうど半分を生きているんです。そう思えば、短い。
その中で日本は4回もの戦争をした。戦争を避けることはできなかったのかと、常に考えています。いや、避ける道はあったはずだけれど、特に日中戦争から太平洋戦争に至る道は軍人も政治家も言論人も、全国民が火の玉になって戦争に突入していった。
《メディアも戦争に協力した。だから今、ジャーナリストとして決めていることがある》
最近、領土問題が議論され、北朝鮮が弾道ミサイル実験などしていると、勇ましい意見が必ず出てきます。アメリカと一緒にあいつらたたきつぶせ、と。だけど絶対、戦争はしてはならない。僕は最後の1人になっても、どんな状況になっても「NO」と言い続ける。それが僕が自分の胸に突きつけているあいくちです。NOと言えなくなったら死ぬ。それが戦争を知っている、歴史学を学んだ一人の人間としての、僕の気持ちです。
こころナビ 松本サリン事件被害者・河野義行さんに聞く 「困難」「幸せ」受け止め方次第
毎日新聞 2013年01月08日
松本サリン事件の被害者、河野義行さん(62)は、4年前に妻をみとり、現在は鹿児島市で「第二の人生」を生きている。数々の苦難に直面してきた河野さんだが、周囲にはいつも友人らが集い、笑い声が絶えない。困難との向き合い方や、「幸せ」について聞いた。
恨み持って楽しく生きられない 相棒ががんでも前向きに
−−自宅で一緒に事件に遭遇し、以後意識が戻らなかった妻澄子さん(享年60)が08年に亡くなりました。
河野さん 妻が亡くなる1週間くらい前に脳のMRI(磁気共鳴画像化装置)を撮ったら、脳が萎縮しわずか厚さ2・7ミリの皮になっていました。医師も「こんな状態で生きている人は見たことがない」と驚いていた。
意識が戻らない14年間、私は妻に「ベッドで寝ているだけで僕や子どもたちは元気をもらっているんだよ」と言い続けました。それが分かっていたから、妻は頑張って生きてくれたのだと思います。
だから、妻が亡くなった時は3人の子どもたちに「これはもう感謝するしかない。悲しむことは失礼だよ」と言いました。葬儀はごく親しい9人だけで行い、音楽を流し、ワイワイと妻のことを語り合いました。当時の写真を見るとみんな笑っているんです。
(妻に)できることは全てやらせてもらったという気持ちもあり、死んだことを悔やむことはありませんでした。
−−事件や加害者を憎まなかったのですか。
河野さん 日本は法治国家ですから、罪を犯した人には裁判所が相応の罰を与えるのがルール。こちらがそれ以上罰を与える必要もないし、加害者に憎しみや恨みを持ち続けて生きることが自分にとって楽しいかと考えた時、楽しくないと思いました。
きれいごとではなく損得勘定です。私は自分のために、与えられた人生を楽しく生きていきたいんです。
−−その後、第二の人生をスタートされました。
河野さん 妻の三年祭を迎えた10年9月、妻が愛用していたハモンドオルガンを使って追悼コンサートを開きました。友人たちと至福の時を過ごし、もう松本でやり残したことはないと思いました。還暦を迎えたこともあり、今までの人生は一度リセットし、スローライフが送れる南の島への移住を決めました。
−−なぜ鹿児島ですか。
河野さん 知人から「鹿児島に最後の楽園がある」と聞き、屋久島の西の離島に興味を持ちました。釣りざんまい、温泉ざんまいの生活も悪くないと心引かれましたが、交通アクセスが極端に悪く、講演活動との両立が難しいことが分かった。そんな時、以前に鹿児島での講演で世話をしてくれた児玉澄子さんが「うちに住めばいいじゃない、使ってない部屋があるから」と言ってくれ、居候生活を始めました。偶然にも妻と同じ名前でした。
−−どんな生活ですか。
河野さん 長野と違い、車で10分走れば海がある。児玉さんとは束縛し合うことなく、話がまとまれば山や海へタケノコやヒジキを採りに行ったり温泉に行ったりする。人生を楽しむ相棒という表現が一番しっくりきます。
警察やマスコミ関係者、オウム真理教の元信者も含め、多くの友人が遊びにきます。なぜそんな人間関係を作れるのかと聞かれますが、人間関係の基本は自分を大切にすることだと思います。自分が幸せでなければ人を幸せにはできません。「私は不幸でつらいんです」とばかり言っていたら、一時は同情されても、いずれ人は離れていきます。
移住1年後の11年9月、児玉さんにがんが見つかりました。肺腺がんで、脳に転移もあった。ステージ4、いわゆる末期ですが、児玉さんは「へえ」と笑っている。10段階の4だと勘違いしたんですね。私が指摘しても、「治せばいいじゃん」と動じない。
−−奥様を亡くし、相棒にもがんが見つかる。自分だったら「なぜ私ばかり……」と思ってしまいそうです。
河野さん 今の年まで生きられたのも、結構大変なことなんですよ。死はいつも隣にある。例えば60歳でがんになった時、60歳の若さでと思うか、60年も生きてこられたことに感謝するかによって見える景色が違ってくる。
最初、医師は「余命3カ月」と思ったそうです。それなのに1年3カ月も余分に生きられたと思えば、ありがたく思える。児玉さんは「先生、名医じゃない!」って笑っていました。その間に悔いが残らないように、死ぬための準備ができたんだから、今は「がんも悪くないね」って言っています。
受け止め方なんですね。がんになったことすら幸せに感じられたら怖いものはないでしょう。嘆くよりも、死を意識して一日一日を楽しく生きる方がいいと思うんです。
思いの方向をちょっと変えるだけでかなり楽に生きられます。人間の行動の原点は「思うこと」。「幸せになりたい」「楽しく生きたい」とひたすら思うことで、自分なりの幸せへの道が開けていくと思います。
*1950年、愛知県生まれ。
94年にオウム真理教が起こした「松本サリン事件」の被害者で、第一通報者。
事件直後から警察の事情聴取を受け、マスコミも容疑者のように報じた。現在は講演活動や犯罪被害者支援を行う。
著書に「『疑惑』は晴れようとも」「今を生きるしあわせ」など。
余録 毎日新聞 2013年01月08日
第二次世界大戦でソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)が独軍に包囲されていた1942年冬の話だ。
空爆による山火事を逃れようとしたロシア馬約1000頭がまだ氷結していなかった同市近くのラドガ湖を渡り出した。
すると突然大音響とともに瞬く間に湖水が凍り、多数の馬が悲惨な最期をとげた。
これは「過冷却」という現象だそうだ。この時は寒波による急な気温低下で湖水が氷点下になりながら凍らない不安定な状態だったらしい。
そこに馬群が入った衝撃で一挙に凍結した。
寒冷地では他の土地の住人には思いもつかぬ現象も多かろう。先月ロシアを襲った記録的寒波ではシベリアで氷点下60度に達した地域もあり、全土で120人以上が亡くなった。
人の生命も容赦なく奪う寒冷地の冬将軍だ。
こちらは5日に氷点下30.2度という低温が東部の陸別町で記録された北海道である。
泊原発の運転停止にともない政府と北海道電力が要請した10年度比7%以上の節電時間帯がきのうから大幅に拡大された。
従来の夕から夜の枠が朝から夜の13時間に広がったのだ。
たとえ計画停電でも電力供給が止まれば人命にかかわる寒冷地だ。
道は「冬の安全プログラム」を掲げ、企業はもちろん家庭にも照明や家電製品の節電を呼びかけてきた。
ただ年末の寒波では電力需要が急伸を見せ、今冬はこれからも平年より雪が多い見通しという。
同じ国土に暮らしながら、電力の融通ができないのがもどかしい。ここは寒い土地の暮らしに根ざした知恵と人情を、電力ともども住民同士でうまく分かち合い、冬将軍の包囲に無事うち勝ってほしい。
宅配やネット販売などの普及によりスーパーの形体は変わっていくであろう。
少子高齢化で主力の酒類事業が縮小?海外市場へ?
時代の変化を先読みし新たな業態を開拓していかないと生き残れない?
販売店としてできることってなんだろう!
~読売新聞 20130106~
キリンホールディングス(HD)は、現本社ビル(東京都中央区新川)と、傘下のキリンビール本社ビル(渋谷区神宮前)を売却する方針を固めた。
周辺の不動産の売買状況から、売却価格はHD本社ビルが50億~100億円程度、キリンビール本社ビルは100億~200億円程度を見込んでいる。売却総額は150億~300億円程度に上る見通しで、相次ぐ海外企業の買収で増加した有利子負債の圧縮に充てる考えだ。
キリンHDは、東京都中野区の賃貸ビルに本社機能を移し、年内にグループの主要部分も移転する。
同社は、少子高齢化で主力の酒類事業が今後縮小することが見込まれるため、海外市場に活路を見いだしている。
これまで豪ライオンネイサン(2009年、2300億円)、ブラジル・スキンカリオール(11年、3038億円)など海外企業の買収を進めてきた。これに伴い、有利子負債は06年の3027億円から11年には1兆1447億円に膨らんでいる。