「関東地方梅雨明けです」
梅雨明けの空は?
爽やかな南風が3階に吹き込む
「今日は窓ガラス掃除デー」
「今日は風が吹いて涼しいねぇ~」皆(@_@;)
やっとカモガヤ花粉症が終わる…夏
雨漏りへの不安もチョッピリ薄れる・・・夏
夏の激ウマご当地麺 美味しそうよ
「関東地方梅雨明けです」
梅雨明けの空は?
爽やかな南風が3階に吹き込む
「今日は窓ガラス掃除デー」
「今日は風が吹いて涼しいねぇ~」皆(@_@;)
やっとカモガヤ花粉症が終わる…夏
雨漏りへの不安もチョッピリ薄れる・・・夏
夏の激ウマご当地麺 美味しそうよ
取手市の姉妹都市米国カリフォルニア州ユーバ市の小中学生から激励メッセージ765通や
願い事が書かれた七夕の短冊が届きました
一部を藤代庁舎ロビーに展示しています
手紙などは、市内の小中学校を巡回する予定です
子どもたちの話題と言えば
気仙沼市の避難所の小中学生が中心になって作っていた壁新聞が単行本になりました
『宮城県気仙沼発!ファイト新聞』は7月7日に発売されました
紫音 ~常陽新聞20110707~
友人から届いた携帯メールに「断捨離」という言葉が出てきた。「大震災によって自然の前では如何にちっぽけな存在であることを思い知らされた」とあり、「あたり前に生きられることに感謝したい。身も心も人生も断捨離して残りの人生を悔いなく生きたい」と記されてあった。
恥ずかしながら、「断捨離」という言葉を知らなかった。クラターコンサルタントのやましたひでこ氏の提唱する生活術という。ヨガの「断業」「捨行」「離行」という考え方を応用し、人生や日常生活に必要なモノを断ち、捨てることでモノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようとする考え方だそうだ。クラターとは英語でガラクタのことで、住まいのガラクタ、頭の中のガラクタを取り除く手伝いをしてくれるのだそうだ。
震災直後は仕事場も自宅も資料や生活用品が崩れ、倒れ、散らかり放題で足の踏み場もなかった。何とか日常生活が送れる範囲まで片付けるというか、四隅にモノを押しのける形で居場所を作った。2ヶ月が経過した時点で、あまり上に重ねないように少しずつ片付けようと声を掛けたが、一向に進まない。家では食事と寝るスペースがあればと落ちついてしまっている感もある。
生活に追われながら日常生活に不要なモノを選別するのは難しいもの。だが、自分自身がガラクタにならないためにも頭の中を切り替え、再起動させるため、断捨離は必要なのかも。
「丼希望」のアンテナを立てていたら、今すぐ使えそうな食器を沢山いただきました
有難うございます
物は増やさず整理していこうと言う姿勢のはずが。。。
お一人様用Kaya欲しいなぁ 脱ヱアコン睡眠ハエ対策(爆)
アースワンの支援物資マッチングシステムがTVで取り上げられていました
メイン会場のひたち野うしく駅に、7本の七夕飾りが飾られました
東西駅ロータリーに飾られた七夕飾り
イベントもあったようですが、今日は静かな七夕です
この方たち何方なのでしょう?
“酒島の霊泉”という昔話で、
村人たちが酒盛りをしているワンシーンのようです
常陽リビングから抜粋させていただきました
牛久市立下根中学校と圏央道の間に広がる田んぼの中にある五十瀬(いそせ)神社。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがある。
酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきたみこしを村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込みほこらを造って祭った。
朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていた。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたという。
村一番の働き者の八兵衛の像は東口にあるようです こちら
八兵衛は牛久版二宮尊徳さんなのでしょうかね?
ひたち野うしくから学園に向う西大通り
ユリノキが風に揺れてウラジロに反射しキラキラしていました
写真では感動が伝えられず 残念です
かしてつバス、平日利用1000人突破 ~常陽新聞20110706~
5月の利用者数、本格運行に弾み
廃線となった鹿島鉄道跡地(バス専用道路)で昨年8月末から運行を開始した全国初のBRT事業「かしてつバス」(バス高速輸送システム、石岡駅~旧小川駅間7・1㌔)で、5月の1日当たり平日利用者が1015人と、1000人の大台を突破したことが5日、分かった。目標とする同鉄道廃線時の1600人には達していないものの、将来に明るさが見える数字で、取り組んできた施策が一定の効果をもたらしたとしている。同日、石岡市石岡1丁目の市消防本部で開かれた第9回かしてつ沿線地域公共交通戦略会議で示された。
利用者数はバスを運行している関鉄グリーンバスが月のうち1週間を計測、平日と休日の平均を出している。今年1月に900人台に乗ったものの、それ以外は800人台後半で推移してきた。
3月は東日本大震災の影響で計測できなかった。ただし、11日は午後8時以降運休とし、15日以降は燃料の確保が困難になったため土日ダイヤで運行したものの1日も休まなかった。燃料不足でガソリンスタンドに並ぶ自動車で平行する国道355号は大渋滞となったが、専用道路を走るバスは渋滞知らずで、BRT事業の優位性が立証されたとした。
しかし、接続するJR常磐線が11日から運休となり、再開したのが31日になったことや沿線高校の3年生の自由登校、在校生の春休みなどもあって、利用者はほとんどいなかったという。4月になると、昨年の代替バスの利用者794人を超える870人が利用。5月には1015人と初めて1000人台を突破した。
サポーターズクラブによる利用促進運動などが一定の効果をもたらしたとしている。石岡運動公園最寄りの「東田中駅バス停」の利用者が多かった理由では、震災の影響で他市の運動公園施設が使用不可能となり、会場が同公園に振り替えられたことも大きいという。このため、運動公園利用促進など、新たな利用者確保の方向性も見い出せたとする。
これらを踏まえ、関鉄グリーンバスは秋のダイヤ改正で、アンケート調査などで強い要望のあった終バスを試験的に45分繰り下げ、JR常磐線との接続に配慮する。
運行便数は平日113本から100本、土日を84本から78本に減らす。このうち、石岡駅~茨城空港間は平日・土日とも16本から18本に増便する。また、旧代替バス路線の一部だった南台循環は現在土日のみ1便だが、平日4便を試験的に自主運行し、山王台病院や南台団地内の研修施設への利便性向上を図る。
関鉄グリーンバスは「昨年8月30日の運行開始から間もなく1年を迎えるが、実証運行から本格運行に移行しても継続的に輸送サービスを提供していくには、利用者や地域住民のニーズに的確に応えていくことが重要」としている。
石岡市南台バス停付近の写真
茨城春秋 2011年7月5日(火)
小紙が創刊されたのは1891年のきょう7月5日。明治維新から24年、社会の風景と価値観が一変し、新しい秩序を模索して世の中が混沌(こんとん)としていた時代だ
そんな世相を背景に、創刊号が掲げた「発刊の趣旨」は県民を荒波に浮かぶ航海者に、小紙をその水先案内人に見立て、文明という港にたどり着くまでは倒れてもともに進み続けると宣言した
それから120年目の今年、先人も経験したことのない災禍が東日本を襲い、県内にも深い爪痕を残した。大震災と原発事故を境に社会の価値観は大きく揺らぎ、県民の心も暮らしも嵐の海を漂流する小舟のように揺れた
小紙も発行の危機に直面した。震災翌日から3日間は4ページに縮小した紙面づくりを余儀なくされた。戦後これほどの苦境に立たされたことはない
読者の皆さんにはご不便をお掛けしたが、「新聞が届くことがこんなにありがたいと思ったことはありません」(常陸大宮市、大森行男さん)といった胸に染みる声を数多く寄せていただいた
くしくも創刊号と同じ4ページの紙面。薄っぺらだが、荒海を漂う航海者と水先案内人の原点が凝縮された宝と自負している。(本)
デスク日誌 2011年7月5日(火)
あすを見据える120年
茨城新聞はきょう、120歳になった。紙齢4万1838号
▼長い歴史の数分の一にすぎないが、記者として紙面づくりに関わってきた。もともとはスポーツ記者志望。“就活”の結果、某スポーツ紙から内定をもらったが、一般紙に行きたくなり、故郷の茨城新聞社を急きょ受験した。自分を含め同期は3人で、記者になったのは1人。残ったのも1人
▼日立、水戸を経て、土浦には志願して来た。「茨城新聞百年史」によれば、社は1906年に土浦に出張所を設けた。こちらも105年
▼会社への帰属意識の低い“スチャラカ社員”だが、記事を通じて地域を良くし、新聞の評価を高めたいという気持ちは人一倍強い。次の100年とは言わず、あすの紙面が充実するよう、県南地域からいい記事を発信したい。(土浦つくば支社・仁平克幸)
多くの現場を歩き人々の声を聞き、紙面を通じ真実を「伝」えて下さい^ ^*