産経新聞 20210201
オンライン会議背景に 取手市の姉妹都市の写真をネットで公開しています。
このほか、取手市ゆかりのアーティストバーチャル背景
シクラメン 赤・ピンク・白の競演 茨城・取手
20201212 産経新聞
赤や白、ピンクの競演-。クリスマスが近づく中、師走や正月を華やかに彩るシクラメンが、茨城県取手市の「美登(みと)花園」で美しい花を咲かせ、鉢植えを買い求める県内外からの客でにぎわっている。
美登花園では約20種、約2800鉢のシクラメンを栽培している。今年は10月の長雨の影響で生育が1、2週間程度遅れたものの、11月になって晴れの日が多く、色づきは例年と変わらないという。
経営する長塚美登(よしのり)さん(61)によると、新型コロナウイルスの感染拡大で同花園を訪れる人はやや減ったが、その分、知人への贈りものとして買い求める人が多いという。
千葉県柏市の主婦(50)は「自宅に飾るのと、両親や親類にお歳暮で贈るため毎年買っている」と話す。
今年はコロナ禍で、美登花園がある取手市をはじめ県南の自治体では感染者が増えるなど暗い話題が続く。長塚さんは「コロナで自宅にいる時間が長いからこそ、赤やピンクのシクラメンを部屋に飾って、家庭に明るさを取り戻してほしい」と話している。
取手市の男性(55)は「赤い色には魔よけ効果があるというので、今年はたくさん家に置いてコロナを退散させたい」と強調していた。
価格は2200~4200円。年内無休。問い合わせは、美登花園(0297・77・0236)。
【常磐路ノート】教え子の胸に生き続ける名将 木内幸男さん
産経新聞 20201210
11月24日に89歳で死去した高校球界の名将・木内幸男さん。2日に茨城県取手市内で営まれた通夜には教え子が大勢駆け付けた。プロ野球・日本ハムの野手総合コーチ、金子誠さん(45)もその一人だった。
常総学院が平成5年夏の甲子園で4強入りしたときの主将。日本ハムでは堅守の内野手として活躍した金子さんの木内さんに関する記憶は今も鮮明だ。本来は右打者だが、「監督に『左で打て』といわれたことがある」と回想する。
懸命に左で素振りし、翌日の練習で左打席に立った金子さんを指揮官は「ふざけてるのか!」としかりつけた。「『左で打て』は、『右で打ってそんなものか』というもののたとえだった、と。こっちは真剣だったのに」と金子さんは苦笑する。
厳しい言葉を浴びせ続ける木内さんへ「何だこのクソじじい!」と反発心も抱いたが、3年夏の甲子園出場時、鬼監督は「すっかり優しいおじいちゃんに変わった」という。「目標は優勝ではなく、『国体に行けるところ(ベスト8)までがんばろう』だった。2年間鍛えて、最後は好きなようにやらせてくれた」
卒業後の進路で、木内さんには「お前は大学野球には向かない」と指摘を受けた。「僕は(守備の)捕り方、投げ方が独特だったので基本にうるさい大学には向かないと。おかげでプロで磨くべき個性は磨けたかな」と将来の道筋をつけてくれた恩師に感謝する。
金子さんは亡くなる2日前、木内さんの夢を見たという。「虫の知らせですかね。監督のノックを僕が受けていた。元気な姿を僕の中にとどめておきたい」。それぞれの思い出の中に名将は生き続ける。
取手市名誉市民 木内幸男氏を追悼する記帳はオンラインで(12月4日から)
令和2年12月4日(金曜日)から令和2年12月11日(金曜日)まで
各日午前8時30分から午後5時15分まで
通夜のニュース 20201203
茨城新聞 いばらき春秋
記者としてかなわなかったことの一つに「木内幸男番」がある
高校野球取材の応援に駆り出され、常総学院の試合に関わった時だけ、「ぶら下がり」や「囲み」ができた。木内さんは、稚拙な問いにもサービス精神たっぷりに答えてくださり、本当に勉強になった
よりお世話になったのは、木内さんが監督を退任し、こちらがスポーツ報道の責任者に就いてからだ。当時、茨城新聞社には木内さんの映像がなかった。2015年にロングインタビューを企画し、土浦市営球場で収録させていただいた
記事は2回に分けて掲載。社の宝と言える映像は、ユーチューブで今も視聴できる
16年に常総学院がセンバツに出場した際には、甲子園に行かずテレビで見るという木内さんに観戦記をお願いした。快諾してくださったが、「原稿料」は固辞された。「茨城新聞は仲間だから、取材を受けるのは義務。お礼なんていい。社長が俺のことを見掛けたら、声を掛けてくれればいいんだ」と笑った。好物の甘味を差し入れさせていただいた
先月24日に亡くなった木内さんの告別式が、きょう取手市内で行われる。木内さんの大いなる「遺産」を、常総学院はじめ高校野球関係者に連綿と継承し発展させていってもらいたい。(仁)
スポニチ
肺がんで11月24日に死去した元常総学院監督の木内幸男氏(享年89)の通夜が2日、茨城県取手市の「やすらぎ苑」で営まれた。取手二、常総学院の監督として春夏通算3度甲子園で優勝し、甲子園通算40勝の名将。雨が降る中で参列した約2400人が故人との別れを惜しむ中、常総学院時代の教え子で来季はDeNA2軍監督となる仁志敏久氏(49)は「木内イズム」の継承を誓った。3日に同所で葬儀・告別式が行われる。
祭壇は野球のダイヤモンドをかたどって花が飾られ、棺の上には故人が愛用したグラウンドコートと3つの甲子園優勝メダル。そしてサインボールが一つ置かれていた。巨人時代に仁志氏が贈った思い出の品だ。故人が大切にしていたもので、3日に棺に入れられて一緒に天国へ持って行くという。
遺影を見つめ、静かに手を合わせた仁志氏は言った。「思い出はたくさんあり過ぎて何か一つを思い出すことはできない。元気に大きな声でしゃべって歩き回っている姿が焼き付いてます…」。87年に常総学院に入学し、すぐに素質を認められた。1年春からレギュラーで夏の甲子園で準優勝。まさに木内野球の申し子だ。試合中は常にベンチで隣に座って監督の言葉に耳を傾け、3年になると監督よりも先にチームへ指示を出すようになったという。「木内さんがいなかったら今の自分はない。親以上の存在です」と懐かしむように話した。
来季からはDeNAの2軍監督に就任し、恩師と同じ指導者の道を歩む。故人が入院する前日の10月28日に87年準優勝時のエースで常総学院・島田直也監督と取手市の自宅を訪れ、就任を報告。それが最後の機会だと分かっていたようで声がほとんど出せない状態でも、喜んでいる様子だったという。「元気だったらどんな話をしてくれたんでしょうね」。でも、故人の教えは心に焼き付いている。
「(木内監督の教えは)考えて野球をすること。状況を考え、状況に応じた答えを出しなさい、と。プレー前に考えて準備する」。育成、チーム力の底上げを担う2軍監督として、その教えを着実に生かす。この日、厳しくも優しかった故人を思い、意を強くした。
遺影の写真は優勝した01年センバツ当時のもの。甲子園で野球ができる喜びにあふれた表情で、教え子の門出にほほ笑みかけていた。(秋村 誠人)
《戒名に「常光」と「摂取」》木内氏の戒名は「常光院摂取球誉幸叡清居士(じょうこういんせっしゅきゅうよこうえいせいこじ)」となった。「常光」は常総学院で「常に光り輝いていた」、「摂取」は取手二で「選手を集め、新しいものを取り入れた」、「球誉」は「野球で茨城県民栄誉賞、取手市名誉市民など名誉を得た」という意味。「叡」には「考え深い」の意があり、故人の球跡をたどり表すものとなった。
◆主な参列者 中島彰一(日本製鉄鹿島監督)、仁志敏久(DeNA2軍監督)、島田直也(常総学院監督)、小菅勲(土浦日大監督)、松沼雅之(解説者、茨城トヨペット投手コーチ)、金子誠(日本ハム野手総合コーチ)、前田三夫(帝京監督)、内田靖人(楽天) =順不同、敬称略
毎日新聞
仁志さん「死ぬまで原点に」 2400人が別れ惜しむ 常総学院・木内元監督通夜
11月24日に89歳で亡くなった取手二高や常総学院の元監督で、甲子園で3度の優勝経験がある木内幸男さんの通夜が2日、茨城県取手市内で営まれ、球界関係者や両校のOBら約2400人が木内さんとの別れを惜しんだ。
木内さんのひつぎの上には、常総学院の監督時代に着ていたジャンパーや、甲子園優勝のメダルが置かれた。
1987年夏の甲子園で同校で準優勝し、来季からDeNA2軍監督を務める仁志敏久さん(49)は、「現役を引退して指導者という立場になってから思い返したのは木内さんのこと。死ぬまで原点になると思う」と話した。同校から3季連続で甲子園に出場した日本ハム野手総合コーチの金子誠さん(45)は、「亡くなる2日前にノックを受ける夢を見た。『元気かな』と思った矢先で、言葉が出ない」と話した
茨城新聞
「天国でも野球を」
高校野球監督として取手二と常総学院を計3回甲子園優勝に導き、89歳で先月死去した木内幸男さんの通夜が2日、取手市内の斎場で執り行われた。プロ野球DeNAの仁志敏久2軍監督ら教え子や野球関係者が数多く参列し、偉大な功績をたたえながら名将をしのんだ。告別式は3日正午から、同所で行う。
同市市之代のやすらぎ苑会場入り口付近には、両校のユニホームと、1984年夏の取手二全国制覇の優勝盾が置かれた。祭壇は野球グラウンドを模して飾られ、常総学院が2001年春と03年夏を制した際の優勝旗レプリカも添えられた。夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」が流れ、参列者が焼香し別れを告げた。
常総学院OBの仁志さんは「特に会うでもなく連絡するでもなかったが、いつも気にしながら野球をしていた。寂しいとか悲しいというより、不思議な感じがしている」と心境を述べた。
同じく母校の監督を務める島田直也さんは、来春の甲子園出場が濃厚なことを踏まえ「采配を見てもらいたかった」と残念がった。03年優勝時の主将で現在は部長を務める松林康徳さんは「熱を持って子どもたちに接する姿勢を受け継ぎたい」と誓った。
取手二優勝メンバーも顔をそろえた。常総学院前監督の佐々木力さんは「残念。これまでも大病を克服していたので…。天国でも野球をするのではないか」と語った。土浦日大監督の小菅勲さんは「子どもの目線まで下げて野球を教えてくれた指導者だった」と振り返った。社会人・日本製鉄鹿島監督の中島彰一さんは「監督のおかげで今、監督ができている」と感謝した。
木内さんと幾度も名勝負を繰り広げた霞ケ浦監督の高橋祐二さんは「大会のたびにお話を聞き、一球の大切さを学んだ」と悼んだ。
サンスポ
木内幸男さん通夜に2400人が別れ 仁志敏久氏「常識で考える野球を学んだ」
高校野球の監督として茨城の取手二高、常総学院高を計3度の甲子園大会優勝に導き、11月24日に肺がんのため89歳で亡くなった木内幸男さんの通夜が2日、茨城県取手市の斎場で営まれ、雨が降る中、教え子ら約2400人の参列者が別れを告げた。
入り口には優勝盾やユニホームが飾られ、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」が流された。常総学院高OBで来季DeNA2軍監督に就く仁志敏久さん(49)は「形式ではなく常識で考える野球を学んだ」と振り返り「プレーの前に考え準備する。それを教えるのはこれからも変わらない」と語った。
産経新聞
高校野球で茨城県の取手二と常総学院両校の監督として甲子園で春夏計3度の優勝を果たし、11月24日に肺がんのため89歳で死去した木内幸男さんの通夜が2日、取手市市之代のやすらぎ苑でしめやかに営まれた。高校球界に多大な足跡を残した名将の旅立ちを悲しむような氷雨が降る中、市民や教え子ら約2400人が木内さんとの別れを惜しんだ。
常総学院が昭和62年夏の甲子園で準優勝したときのエースで、プロでも横浜(現DeNA)などで活躍。今夏、母校の監督に就任した島田直也さん(50)は「常総に恥はかかせられない。頑張ります」と霊前で奮闘を誓った。
チームは今秋の関東大会で準優勝し、来春予定される選抜大会への出場が有力視される。「こういうケースではどうすればいいのかといったことを聞きたかった」と恩師の死を惜しんだ。
島田さんと同じ準優勝メンバーで今秋、DeNAの2軍監督に就任した仁志敏久さん(49)は10月下旬、木内さんの入院前日に本人と対面。「だいぶやせて、会話も苦しそうだった」と回想する。「木内さんと出会わなければ今の自分はいない。親以上の存在だった」としみじみ。
取手二の優勝メンバーで、社会人・日本製鉄鹿島監督の中島彰一さん(54)は「普通の高校生だった自分たちがあんな舞台(甲子園)に立てたのは木内さんのおかげ」と感謝。同じく取手二で優勝し、現在は土浦日大監督の小菅勲さんは54歳を迎えた誕生日が偶然、木内さんの死去した翌日だった。「もう一度生まれ変われるように」と気持ちを新たにチームの指導に当たっていくという。