Archive for 9月 9th, 2016

いろいろ色めくグラスセット キリン

金曜日, 9月 9th, 2016

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ハワイコナ100%☕は、粉っぽかった(笑)

金曜日, 9月 9th, 2016

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携帯不調となり数カ月経過

アイフォンのマップの使いやすさが気に入って

次はアイフォンと考えていた矢先

9日から予約開始 。゚。\(´ω`)/。゚。バンザ-イ

いそいそと出かけたら

午後4時からの受付です・・・

😢

待ち時間に、気になっていたcaféへ

ちなみに、コナブレンドはドリップで淹れてくれます。

茨城県立竜ヶ崎一高 毎日新聞

金曜日, 9月 9th, 2016

ぐるっと首都圏・母校をたずねる

茨城県立竜ケ崎一高 2
怠惰と決別、外交官に 北沢寛治さん /東京

毎日新聞2016年9月9日

*元コンゴ大使・北沢寛治さん

1966年度卒
リオデジャネイロ五輪で結成された難民選手団に、コンゴ民主共和国(旧ザイール)出身の選手もいた。内戦と飢餓と病による犠牲者が500万人も出たともされる国だ。竜ケ崎一高では「怠惰な生徒だった」と振り返る元コンゴ大使、北沢寛治さん(68)=1966年度卒=は、貧困と紛争との連鎖を断ち切ろうと途上国支援に外交官人生をささげた。【根本太一】

私が入学した頃の竜ケ崎一高は、地元で少しだけ成績の良い生徒が進学する学校でした。校内での競争は厳しくて、国語と数学、英語の実力試験が毎月あり、上位50人の名が廊下に張り出されるんです。1年の時はそこそこ勉強し、2年に進級すると授業の前に「起立、礼」の号令を掛ける栄誉にあずかりました。

しかし「そこまで」です。2年時以降はなぜか意欲をなくし、美術の部活もやめて、授業が終わると自転車を20分こいで自宅に帰るか、友人の家でだらだら過ごすか。当然、廊下の張り出しに載らない回数も増えていきました。

むしろ高校との縁は卒業後。大学でカントリーウエスタンのバンドに入ったんです。担当はフィドル(バイオリン)。楽譜が読めず、耳で覚えて何とか弾きました。そしたら、竜ケ崎一高の同級生や先輩にも楽器をやっている連中がいてね。なら地元でもと「ヒルビリー・キッズ」という名のバンドを組みました。街のダンスパーティーで小遣いを稼いだりして。最後に皆で演奏したのは、74年の私の結婚披露宴でしたかね。

その後、外務省での約半分は在外公館勤務でした。研修語学はフランス語で、選んだ分野も経済協力中心でしたから、赴任先の多くがアフリカ大陸の途上国です。政府開発援助(ODA)で貧しい国の人を支援する。日本外交の最も重要で有効な手段であり、達成感もある仕事です。

リオの難民五輪選手団にも出身選手がいた旧ザイールに着任したのは87年。約2年間の勤務でしたが、当時は日本の経済成長は衰えを知らず、ODA予算も増えて相手国民から感謝されました。しかし91年に治安が悪化し、ODAも大きく減って、日本の存在感は薄れていきました。

2008年に約20年ぶりに赴任した時にはショックを受けました。道路はでこぼこ。上下水道も未整備。発展どころか後退です。しかも中国が大規模援助を実施し、銅など鉱物資源の確保にも力を入れる。「目に見える援助」の実現に尽力し、09年度の援助額は07年度に比べて3倍の69億円になりました。日本は高い評価を得て、第一線で活動できる喜びを感じました。

実は私は大学を出て1年ほど、語学教材販売などのサラリーマン生活をしていました。安保闘争の影響で3、4年はろくに授業も受けられずに卒業し、もんもんとした日々。そんな折、就職先の研修のため出国する友人を羽田空港で見送ったんです。初めて「海外」を意識しました。確か、誰かが外交官試験という制度があると言っていたなと。

会社を辞めて自宅にこもり、独学で挑みました。結果は不合格。仕方ないですね。大学で全く勉強していないんです。「だが待てよ。お前は絶対に外交官になると決めたんじゃないのか? 外交官に人生を懸けた。懸けた勝負なら、勝てよ」。自らの強い意志が支えてくれました。

そうなんです。怠惰な高校生だった私も大学受験では、入試前3カ月はしゃかりきに勉強しました。毎日5〜6時間は机に向かったもんです。あの時に培った集中・瞬発力が外交官試験でも生きたのか。大学合格を担任の南畝清志先生に電話で伝えたら、とっても喜んでくれて。今でも鮮明に覚えています。

49年に校名を龍→竜 文化祭では旧字体踏襲
竜ケ崎一高は、龍ケ崎市にある。いずれも「りゅう」の読み方は同じだが、漢字は異なる。公的な組織・施設もバラバラで、警察署や税務署、関東鉄道の路線・駅は「竜」。対して法務局や労働局、自衛隊の出先事務所は「龍」を使っている。

市が公的な文書での表記を「龍」に統一したのは1996年度。市制施行した54年の官報の記述「龍ケ崎市とする旨、茨城県知事から届け出があった」が根拠だ。ただ常用漢字の「竜」でも間違いではないことから、両方を容認し、統一に42年を要した。

一方の竜ケ崎一高も発足は旧「龍ケ崎中学」だった。48年の学制改革で「龍ケ崎高校」となったが翌49年、県が県立校名から「女子」を外したのを機に現在の校名に改められた。この時「龍ケ崎女子高」は竜ケ崎二高に変更された。唯一の「龍ケ崎高校」の卒業生は50人だったという。

毎日新聞は常用漢字を重視し「竜ケ崎市」と表記していたが、2013年に市名、市の行政機関に限り旧字体の「龍ケ崎」に変更した。同校の生徒や卒業生は「旧字体の方が『趣』や『貫禄』がある」と感じているようで、74年に生徒会が始めた文化祭は「白龍祭」と名付けられ、現在も「龍」の字を踏襲している。


 
茨城県立竜ケ崎一高 1 「未来」は自ら切り開く 宮嶋宏幸さん /東京

毎日新聞2016年9月2日
*ビックカメラ社長・宮嶋宏幸さん

1977年度卒
「母校をたずねる」は今月から、茨城県立竜ケ崎第一高校(龍ケ崎市平畑)編をお届けします。県南部の田園地帯にあり、政治や文化、スポーツ界など幅広い分野に卒業生を送り出してきた伝統校。初回は、家電量販大手ビックカメラの社長、宮嶋宏幸さん(56)=1977年度卒=が、「竜一」での思い出や卒業後を振り返ります。【根本太一】

信州(長野県)の、NHK大河ドラマ「真田丸」で名が知れた上田市から中学3年への進級前、父の仕事の都合で茨城県取手市に引っ越して来ました。「竜一」(竜ケ崎一高)を選んだのは、伝統と丘の上に建つ風格を感じさせる校舎が気に入ったからです。私鉄、国鉄(現JR)、さらに私鉄の乗り継ぎで片道1時間ほどと、自宅からは遠かったのですが。

高校は、バスケットボール漬けの3年間でした。部員が少なくて同級生も2人だけでしたが、目標は県大会ベスト8。結果的に16強止まりでしたけど、休みは盆と正月の数日だけでした。体育館が狭くて、バレーボール部と半々に使って、隅っこでは体操部が練習していたほどです。

なのに雨が降ると体育館は野球部に占領されてしまう。廊下を走るだけで、ボールを持つ練習もできない。まあ、仕方ないというか、野球部は強かったですから。私が入学した1975年には夏の甲子園にも出場したんです。

学校行事で最大のイベントが文化祭でした。3年に1度しか開催されないんです(現在は毎年)が、ちょうど私が3年生の時に開かれ、全体スローガンは「友よ! 限りない未来へ旅立とう!」。燃えましたね。バスケ部も「あなたはどんな青春の中に生きていますか」なんて掲げてました。

ただ、輝いた青春時代とは言っても、将来に確かな夢を抱いていたわけではありません。1浪して大学の英文科に入ったのは「何となく教諭になりたい」と考えたからでした。日本経済の右肩上がりは永遠に続くと信じて疑わなかった時代。だったら、いろいろな世界を見ようとアルバイトに明け暮れました。

宮大工、塾講師、就職情報誌の営業……。閣僚経験のある地元選出参院議員の秘書も務め、地元の結婚式に代理で出席してあいさつしたり、選挙ではパンフレットを配って票田で頭を下げて歩いたり。そんな中で性に合っていると思えたのが、小売業でした。実家近くの大型スーパーで、高額の冷蔵庫がほぼ毎日1台、売れたんです。モノを売る喜びに震えました。

卒業時にたまたま出会った別の大学の先生に紹介されたのが、ビックカメラでした。先生が言うには「お前みたいな男は大手に就職しても歯車止まりだ。ベンチャーのような小さな会社で、とにかく3年間は踏ん張れ」と。その言葉が妙に気に入ったんです。

当時の弊社は池袋に2店舗しかなく、世間でいう安定した企業とは、ほど遠かった。しかし「限りない未来」を目指した竜一高で染み込んだ精神が目覚めたというか、可能性をとことん追求してやろうと。チャンスは自らが切り開く。あの感覚を失いたくないから、私は社長室を持ちません。商品仕入れや営業本部のあるフロアで現場と同じ空気を吸っているんです。

「迷うことより実行」「劣等感は成長を止める」−−。これは、クラスの卒業文集を作るにあたって、日本史の先生が寄せてくれた一文です。今も文化祭の冊子と一緒に大事にしています。元同級生11人とは都内でたまに飲み会をするんですよ。職種も違う仲良し元同級生同士の会話から生まれた一つに、日本航空と弊社とのポイント(マイレージ)交換提携制があった点を付け加えさせてください。

地元期待、1900年創立 校章に2頭の竜
茨城県では明治中期、各地で激烈な中学(旧制)誘致運動が繰り広げられていたという。竜ケ崎一高は地元の期待を担って1900(明治33)年、土浦中学(現・茨城県立土浦第一高等学校)の分校として創立。02年に独立して旧制龍ケ崎中学となった。

第二次大戦後の48年、学制改革に伴い新制高校に改編。これまでに約2万4000人の卒業生を送り出してきた。かつて国の重厚長大政策を支えた日本鋼管の元社長・河田重氏や、総合商社・丸紅の初代社長の市川忍氏、あるいは元二科会常務理事の洋画家、服部正一郎氏らを輩出した。

運動部も輝かしい実績を持つ。64年の東京五輪では陸上部員が聖火リレー走者を務め、卒業生の一人は柔道で金メダルを獲得した。近年は出場機会を逸しているものの、野球部は旧制中時も含めて甲子園に春夏10回出場。射撃部も82年の全国大会での女子団体優勝を機に快進撃を続ける。

開校時の校訓は「誠実 剛健 高潔」。後に「協和」が加わり、今も引き継がれている。全国で多くの学校が校名や地域の頭文字を模した絵柄を校章に取り入れているが、竜ケ崎一高の校章は、2頭の竜がデザインされているのが特徴。現在も、美しいブロンズの校章が正門にはめ込まれ、2頭の竜が生徒たちを鼓舞している。