ぐるっと首都圏・母校をたずねる
茨城県立竜ケ崎一高 3 多様性支えた包容力 田島英一さん
中国地域研究者・田島英一さん
1980年度卒
竜ケ崎一高は、いわゆる「ガリ勉」だけが集まる高校ではないという。慶応大教授で中国地域研究者の田島英一さん(54)=1980年度卒=も、さまざまな個性を持つ同級生たちと机を並べた。「でも、そんな多様性を支えてくださったのが、先生方。皆がそれなりに自分の『居場所』を見つけられる学校だった」と懐かしむ。【根本太一】
慶応で教壇に立っています。研究、教育における信念は「良き批判の前提は良き理解であり、良き理解の前提は愛情である」。上から目線でなく、現地に出向き、同じものを食べて同じ匂いをかぐ。コミュニケーションを通して自らを啓発する−−。社会科学の基本だと思うんです。
高校時代はハンドボールに熱中していました。部員が少なかったせいか1年の後半からはレギュラーです。ただ、当時ハンド部とサッカー部のグラウンドは丘と丘の谷間にあって冬は日が当たらない。積雪は春まで凍ってしまう。冬は練習そっちのけで雪かきに追われていたもんです。
疲れて帰宅すると、寝転んで本を読むのが日課でした。文庫本を20〜30冊ほど一度に買って2カ月ぐらいで読み終える。ドストエフスキー、トルストイ……。文学作品が中心です。日本の作家では芥川龍之介の文体が気に入って、芥川だけは全集を買いました。
そんな毎日だったから、受験勉強というものを全くしていない。国立大には「共通一次試験」(現センター試験)があって、7科目勉強して受験できるのは1校。なら3科目で済む私立に絞ると、早々と学校側に宣言したんです。
それからですよ、「悪魔のささやき」が始まったのは。「国立優先」の意識が強かったんでしょうね。ある先生が「茨城大に推薦を出してやる」とおっしゃる。断ると、数カ月して「筑波大ならどうだ」と。ちょっと待ってくださいと。大学ぐらい茨城を出て、外の世界を見たいじゃないですか。最後は英語の大野英二先生が「おめ、絵がうまかっぺ? 東京芸大行がねが」と。さすがに苦笑しました。
結局、私立路線を通しました。しかし、いざ受験勉強を始めると、睡眠不足が胃にたたり、時々嘔吐(おうと)するようになりました。慶応の受験会場でも、試験直前にトイレに駆け込む有り様。よく受かったと思います。そんな状態ですから、3年の後半は遅刻がちで、午後から登校、という日もありました。それでも先生方は大目に見てくださった。
そういえば、学校に750ccの大型バイクで来る同級生がいたんですよ。原付きバイクでの通学は認められていたんですが、あれは明らかに校則違反。ところが、校門前で見張っていた先生の一人に指摘された彼は「今はこういう原付きが流行なんだ」と、すまして答える。すると先生も「そうかあ」と通してしまう。きっとうそは承知で、目をつむっていらしたんでしょう。
おおらかだったんですね。クラスにはシティーボーイもいれば、おっとりした農村出身の子もいる。でも皆が、何の違和感もなく付き合える雰囲気がありました。背景には先生方の包容力があったと思います。
ゆるく入学でき、ゆるく卒業できるのが竜一でした。偏差値の「ふるい」で均質化した学校では、こんなおうようさは想像できないかもしれません。私も教育者として、先生方の包容力をお手本にしています。2012年秋の同窓会で、大野先生も元気な顔を見せてくれました。「芸大受験を勧めたこと、覚えてらっしゃいますか」とうかがったら、にこやかにうなずかれた。竜一生で良かったと思っています。
浪川商店のゴムそば 部活帰り、胃袋満たす
正門を出て石段を下りた通学路に、竜一生の胃袋を満たしてくれた「浪川商店」があった。太平洋戦争の空襲で東京から疎開してきた浪川善次郎さんが、1952年ごろに開業。
一番人気は焼きそばだ。冬になると作り置きが冷めてぼそぼそになっていたのか、誰からともなく「ゴムそば」と呼ばれるようになった。揚げたソーセージを挟んだパンは「肉ぼっか」。夜遅くにはコロッケや天ぷらなど、残り物の総菜を盛った「全部乗せうどん」もあった。コンビニのない時代。部活帰りの生徒たちであふれた。
善次郎さんが77歳で引退した後も、95年まで店を続けた嫁の幸子さん(68)は「日曜にシャッターを閉めていても、裏口から生徒が入ってきた」と懐かしむ。善次郎さんは99年に88歳で、妻さたさんも今年1月に98歳で世を去ったが、浪川商店の「伝説」は今も語り継がれている。
つづく