Archive for the ‘茨城’ Category

奇跡の栗 ぽろたん 愛樹マロン

木曜日, 9月 22nd, 2016

奇跡の栗と言われている「ぽろたん」
皮に切り込みを入れて3分程度茹でる。
アツアツのうちに皮を剥けば、栗がぽろっと出てくる。
この状態ではまだ硬いので・・・調理に向いています。
調理の段階で渋皮をはがす技術が「ぽろたん」を生んだのですね。

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生栗焼いちゃいました。

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ぽろたんと生栗を比べてみた。

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今夜は、真空にして冷凍庫へ

さぁ 何にしていただこうかしら?

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ぽろたん焼栗は

熟成過程終了の10月**より販売します。

笠間の栗さんより

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愛樹マロン 毎日新聞記事

偕楽園公園のキバナコスモス

水曜日, 9月 21st, 2016

4日ぶりの水戸

最近混雑を避けて移動できるようになってきた。

ハッスル黄門だ!

最近 ロードコーンの種類の豊富さ↗↗

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偕楽園公園のキバナコスモスが見頃です。

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しゃらりんTシャツ発見

月曜日, 9月 19th, 2016

茨城新聞動画 20160916

茨城国体成功へ 歌やダンス披露

水戸でPRイベント

2019年の茨城国体と全国障害者スポーツ大会の開催決定を記念したイベントが18日、水戸市小吹町のケーズデンキスタジアム水戸で開かれ、あいにく降ったりやんだりの天候となったが、多くの家族連れらでにぎわった。
両大会の正式決定を祝うセレモニーで、橋本昌知事は「夢と感動を与える大会にしたい。3年後に向けて県民総参加で盛り上げていきたい」とあいさつ。水戸市出身のシンガー・ソングライター、磯山純さんが両大会のイメージソング「そして未来へ」を熱唱し、歌声に合わせてオリジナルダンスも披露された。大会マスコットキャラクター「いばラッキー」や学生らによる広報ボランティアも登場し、両大会をPRした。
会場ではアーチェリーやパワーリフティングなど両大会で実施される各種競技の体験コーナーも設けられ、熱心に指導を受ける子どもたちの姿が目立った。イベントは19日も行われる。

飛鳥Ⅱ 初めて常陸那珂港区へ

日曜日, 9月 11th, 2016

茨城新聞動画ニュース 20160911
入港

出港

豪華客船 飛鳥Ⅱ 初常陸那珂港区

2016年9月10日午前8時30分~午前9時30分まで 入港セレモニー
ウェルカム演奏(県立佐和高等学校吹奏楽部)
入港歓迎式典

午前9時から午後5時まで おもてなしイベント
常陸那珂港区“海上&陸上”見学ツアー (港区内を小型船及びバスで周遊)
おもてなしステージ (ステージ)
飲食・物販ブース出店 (地元飲食店による飲食物や県内特産品等の販売)
飛鳥II船内見学会 (公募による当選者が対象)

午後4時15分~ 出港セレモニー
マーチング演奏 (県立大洗高等学校ブルーホークス)
午後5時 出港(紙テープでお見送り)

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茨城県立竜ヶ崎一高 毎日新聞

金曜日, 9月 9th, 2016

ぐるっと首都圏・母校をたずねる

茨城県立竜ケ崎一高 2
怠惰と決別、外交官に 北沢寛治さん /東京

毎日新聞2016年9月9日

*元コンゴ大使・北沢寛治さん

1966年度卒
リオデジャネイロ五輪で結成された難民選手団に、コンゴ民主共和国(旧ザイール)出身の選手もいた。内戦と飢餓と病による犠牲者が500万人も出たともされる国だ。竜ケ崎一高では「怠惰な生徒だった」と振り返る元コンゴ大使、北沢寛治さん(68)=1966年度卒=は、貧困と紛争との連鎖を断ち切ろうと途上国支援に外交官人生をささげた。【根本太一】

私が入学した頃の竜ケ崎一高は、地元で少しだけ成績の良い生徒が進学する学校でした。校内での競争は厳しくて、国語と数学、英語の実力試験が毎月あり、上位50人の名が廊下に張り出されるんです。1年の時はそこそこ勉強し、2年に進級すると授業の前に「起立、礼」の号令を掛ける栄誉にあずかりました。

しかし「そこまで」です。2年時以降はなぜか意欲をなくし、美術の部活もやめて、授業が終わると自転車を20分こいで自宅に帰るか、友人の家でだらだら過ごすか。当然、廊下の張り出しに載らない回数も増えていきました。

むしろ高校との縁は卒業後。大学でカントリーウエスタンのバンドに入ったんです。担当はフィドル(バイオリン)。楽譜が読めず、耳で覚えて何とか弾きました。そしたら、竜ケ崎一高の同級生や先輩にも楽器をやっている連中がいてね。なら地元でもと「ヒルビリー・キッズ」という名のバンドを組みました。街のダンスパーティーで小遣いを稼いだりして。最後に皆で演奏したのは、74年の私の結婚披露宴でしたかね。

その後、外務省での約半分は在外公館勤務でした。研修語学はフランス語で、選んだ分野も経済協力中心でしたから、赴任先の多くがアフリカ大陸の途上国です。政府開発援助(ODA)で貧しい国の人を支援する。日本外交の最も重要で有効な手段であり、達成感もある仕事です。

リオの難民五輪選手団にも出身選手がいた旧ザイールに着任したのは87年。約2年間の勤務でしたが、当時は日本の経済成長は衰えを知らず、ODA予算も増えて相手国民から感謝されました。しかし91年に治安が悪化し、ODAも大きく減って、日本の存在感は薄れていきました。

2008年に約20年ぶりに赴任した時にはショックを受けました。道路はでこぼこ。上下水道も未整備。発展どころか後退です。しかも中国が大規模援助を実施し、銅など鉱物資源の確保にも力を入れる。「目に見える援助」の実現に尽力し、09年度の援助額は07年度に比べて3倍の69億円になりました。日本は高い評価を得て、第一線で活動できる喜びを感じました。

実は私は大学を出て1年ほど、語学教材販売などのサラリーマン生活をしていました。安保闘争の影響で3、4年はろくに授業も受けられずに卒業し、もんもんとした日々。そんな折、就職先の研修のため出国する友人を羽田空港で見送ったんです。初めて「海外」を意識しました。確か、誰かが外交官試験という制度があると言っていたなと。

会社を辞めて自宅にこもり、独学で挑みました。結果は不合格。仕方ないですね。大学で全く勉強していないんです。「だが待てよ。お前は絶対に外交官になると決めたんじゃないのか? 外交官に人生を懸けた。懸けた勝負なら、勝てよ」。自らの強い意志が支えてくれました。

そうなんです。怠惰な高校生だった私も大学受験では、入試前3カ月はしゃかりきに勉強しました。毎日5〜6時間は机に向かったもんです。あの時に培った集中・瞬発力が外交官試験でも生きたのか。大学合格を担任の南畝清志先生に電話で伝えたら、とっても喜んでくれて。今でも鮮明に覚えています。

49年に校名を龍→竜 文化祭では旧字体踏襲
竜ケ崎一高は、龍ケ崎市にある。いずれも「りゅう」の読み方は同じだが、漢字は異なる。公的な組織・施設もバラバラで、警察署や税務署、関東鉄道の路線・駅は「竜」。対して法務局や労働局、自衛隊の出先事務所は「龍」を使っている。

市が公的な文書での表記を「龍」に統一したのは1996年度。市制施行した54年の官報の記述「龍ケ崎市とする旨、茨城県知事から届け出があった」が根拠だ。ただ常用漢字の「竜」でも間違いではないことから、両方を容認し、統一に42年を要した。

一方の竜ケ崎一高も発足は旧「龍ケ崎中学」だった。48年の学制改革で「龍ケ崎高校」となったが翌49年、県が県立校名から「女子」を外したのを機に現在の校名に改められた。この時「龍ケ崎女子高」は竜ケ崎二高に変更された。唯一の「龍ケ崎高校」の卒業生は50人だったという。

毎日新聞は常用漢字を重視し「竜ケ崎市」と表記していたが、2013年に市名、市の行政機関に限り旧字体の「龍ケ崎」に変更した。同校の生徒や卒業生は「旧字体の方が『趣』や『貫禄』がある」と感じているようで、74年に生徒会が始めた文化祭は「白龍祭」と名付けられ、現在も「龍」の字を踏襲している。


 
茨城県立竜ケ崎一高 1 「未来」は自ら切り開く 宮嶋宏幸さん /東京

毎日新聞2016年9月2日
*ビックカメラ社長・宮嶋宏幸さん

1977年度卒
「母校をたずねる」は今月から、茨城県立竜ケ崎第一高校(龍ケ崎市平畑)編をお届けします。県南部の田園地帯にあり、政治や文化、スポーツ界など幅広い分野に卒業生を送り出してきた伝統校。初回は、家電量販大手ビックカメラの社長、宮嶋宏幸さん(56)=1977年度卒=が、「竜一」での思い出や卒業後を振り返ります。【根本太一】

信州(長野県)の、NHK大河ドラマ「真田丸」で名が知れた上田市から中学3年への進級前、父の仕事の都合で茨城県取手市に引っ越して来ました。「竜一」(竜ケ崎一高)を選んだのは、伝統と丘の上に建つ風格を感じさせる校舎が気に入ったからです。私鉄、国鉄(現JR)、さらに私鉄の乗り継ぎで片道1時間ほどと、自宅からは遠かったのですが。

高校は、バスケットボール漬けの3年間でした。部員が少なくて同級生も2人だけでしたが、目標は県大会ベスト8。結果的に16強止まりでしたけど、休みは盆と正月の数日だけでした。体育館が狭くて、バレーボール部と半々に使って、隅っこでは体操部が練習していたほどです。

なのに雨が降ると体育館は野球部に占領されてしまう。廊下を走るだけで、ボールを持つ練習もできない。まあ、仕方ないというか、野球部は強かったですから。私が入学した1975年には夏の甲子園にも出場したんです。

学校行事で最大のイベントが文化祭でした。3年に1度しか開催されないんです(現在は毎年)が、ちょうど私が3年生の時に開かれ、全体スローガンは「友よ! 限りない未来へ旅立とう!」。燃えましたね。バスケ部も「あなたはどんな青春の中に生きていますか」なんて掲げてました。

ただ、輝いた青春時代とは言っても、将来に確かな夢を抱いていたわけではありません。1浪して大学の英文科に入ったのは「何となく教諭になりたい」と考えたからでした。日本経済の右肩上がりは永遠に続くと信じて疑わなかった時代。だったら、いろいろな世界を見ようとアルバイトに明け暮れました。

宮大工、塾講師、就職情報誌の営業……。閣僚経験のある地元選出参院議員の秘書も務め、地元の結婚式に代理で出席してあいさつしたり、選挙ではパンフレットを配って票田で頭を下げて歩いたり。そんな中で性に合っていると思えたのが、小売業でした。実家近くの大型スーパーで、高額の冷蔵庫がほぼ毎日1台、売れたんです。モノを売る喜びに震えました。

卒業時にたまたま出会った別の大学の先生に紹介されたのが、ビックカメラでした。先生が言うには「お前みたいな男は大手に就職しても歯車止まりだ。ベンチャーのような小さな会社で、とにかく3年間は踏ん張れ」と。その言葉が妙に気に入ったんです。

当時の弊社は池袋に2店舗しかなく、世間でいう安定した企業とは、ほど遠かった。しかし「限りない未来」を目指した竜一高で染み込んだ精神が目覚めたというか、可能性をとことん追求してやろうと。チャンスは自らが切り開く。あの感覚を失いたくないから、私は社長室を持ちません。商品仕入れや営業本部のあるフロアで現場と同じ空気を吸っているんです。

「迷うことより実行」「劣等感は成長を止める」−−。これは、クラスの卒業文集を作るにあたって、日本史の先生が寄せてくれた一文です。今も文化祭の冊子と一緒に大事にしています。元同級生11人とは都内でたまに飲み会をするんですよ。職種も違う仲良し元同級生同士の会話から生まれた一つに、日本航空と弊社とのポイント(マイレージ)交換提携制があった点を付け加えさせてください。

地元期待、1900年創立 校章に2頭の竜
茨城県では明治中期、各地で激烈な中学(旧制)誘致運動が繰り広げられていたという。竜ケ崎一高は地元の期待を担って1900(明治33)年、土浦中学(現・茨城県立土浦第一高等学校)の分校として創立。02年に独立して旧制龍ケ崎中学となった。

第二次大戦後の48年、学制改革に伴い新制高校に改編。これまでに約2万4000人の卒業生を送り出してきた。かつて国の重厚長大政策を支えた日本鋼管の元社長・河田重氏や、総合商社・丸紅の初代社長の市川忍氏、あるいは元二科会常務理事の洋画家、服部正一郎氏らを輩出した。

運動部も輝かしい実績を持つ。64年の東京五輪では陸上部員が聖火リレー走者を務め、卒業生の一人は柔道で金メダルを獲得した。近年は出場機会を逸しているものの、野球部は旧制中時も含めて甲子園に春夏10回出場。射撃部も82年の全国大会での女子団体優勝を機に快進撃を続ける。

開校時の校訓は「誠実 剛健 高潔」。後に「協和」が加わり、今も引き継がれている。全国で多くの学校が校名や地域の頭文字を模した絵柄を校章に取り入れているが、竜ケ崎一高の校章は、2頭の竜がデザインされているのが特徴。現在も、美しいブロンズの校章が正門にはめ込まれ、2頭の竜が生徒たちを鼓舞している。

潜在的な待機児童

月曜日, 9月 5th, 2016

茨城新聞20160905

厚生労働省は2日、希望しても認可保育所などに入れない待機児童が今年4月時点で、昨年より386人多い2万3553人だったと発表した。増加は2年連続。保育所の整備が進む一方で、利用申込者も急増した。政府は2017年度末までの待機児童ゼロを掲げるが対策が追い付かず、目標達成は厳しい状況だ。
同省は今回、集計に含まれない「潜在的な待機児童」の自治体別内訳も初めて明らかにした。保護者が育児休業中などの理由で除外されているのは昨年より約8千人多い6万7354人。厚労省は保育ニーズの実態を反映させるため待機児童の定義を統一する方針で、人数は膨らむ可能性がある。
4月時点で待機児童がいたのは昨年より12増の386市区町村。最多は東京都世田谷区の1198人で、岡山市(729人)、那覇市(559人)が続いた。都市部に集中し、首都圏(埼玉、千葉、東京、神奈川)、近畿圏(京都、大阪、兵庫)とその他の政令市、中核市で全体の74・3%を占めた。青森や長野など9県では0人だった。
年齢別では1~2歳児が71・1%を占め、厚労省はこの年齢層の受け皿整備を中心に取り組む。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

茨城県内の市町村比較

待機児童2年連続増20160905-i

あん庵 テイストに掲載

日曜日, 9月 4th, 2016

茨城新聞日曜版テイスト 20160904
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あん庵ブログ

空き家 判定統一基準を 茨城・筑西で全戸調査

土曜日, 9月 3rd, 2016

昨年茨城県の空き家対策をテーマに約1年間話し合いをしていました。
リストがあったら空き家を探している人が探しやすいですね。
全国的に広がっていくかもしれません。

空き家 判定統一基準を 茨城・筑西で全戸調査 ゼンリン作成

毎日新聞2016年9月3日 
 住宅地図最大手「ゼンリン」(北九州市戸畑区)などは近く、茨城県筑西市の協力を得て、同市内の全戸調査を始める。自治体職員らが外観から空き家かどうかを判定したり、利活用の見込みを調べたりする際、一律に評価できるチェックシートのようなものを作ろうという試みだ。国土交通省も支援しており、調査で得られたノウハウは公開される。

 自治体が空き家の数や現状などを把握する場合、現地調査で住宅の外観などから判定していくやり方が一般的だ。調査は委託した民間業者や消防団員などがあたることも少なくないとされる。

 ゼンリンは住宅地図作製のため実地調査の実績が豊富で、各地の自治体から空き家調査を依頼されることも多い。今回の筑西市での調査を通じ、どの自治体でも共有できる客観的なチェック項目のリストづくりを目指す。また、この取り組みには、一般財団法人・日本不動産研究所(東京都港区)も参加。空き家かだけでなく、賃貸などで利活用できるかどうかの判断基準もチェック項目に加える。

 筑西市は人口約10万人。昨年10月から今年1月にかけて、消防団員を活用して市全域で調査を実施し、1000戸程度が空き家とされた。だが、「細かなマニュアルなどがなく、判定の仕方にばらつきがあった」(担当者)という。市空き家対策推進課はゼンリンなどの調査について「さらに詳細な現状が把握できるほか、消防団による調査の検証もできる」と期待する。

 9月から本格的に始まる調査は、ゼンリンの調査員5人が数カ月をかけ、建物の外観からチェックを行い、空き家かどうかなどを判定していく。

自転車こいで「こぎ氷」 全国版に掲載

土曜日, 9月 3rd, 2016

競輪
自転車こいで「こぎ氷」 銀座でイベントPR

毎日新聞2016年9月3日 

 東京・銀座の茨城県アンテナショップ「茨城マルシェ」前で2日、競輪選手が自転車をこいでかき氷ならぬ「こぎ氷」を振る舞い、取手競輪場(同県取手市)で22日に開催されるイベントをPRした。

 日本競輪選手会茨城支部が企画。かき氷器のハンドルと競輪用自転車をチェーンで直結し、選手3人が交代でこいで210人に提供した。イベントでは子供用の自転車をつなぎ、こぎ氷作りを体験できる。

 選手が自転車をこぐと、10秒ほどで1杯分のかき氷ができあがり、見物客から驚きの声が上がった。支部長の戸辺裕将選手(45)は「競輪のイメージアップに役立った」と満足そうだった。

かったて祭りって将門軍の松明が起源と・・・

木曜日, 9月 1st, 2016

 

茨城新聞動画ニュース 2016年9月1日(木) 

山赤く染めるたいまつの列 桜川・真壁「かったて祭り」

たいまつを持って山を登る子どもたち=桜川市真壁町山尾たいまつを持って山を登る子どもたち=桜川市真壁町山尾
たいまつをかざしながら山を登り、五穀豊穣(ほうじょう)や家内安全を願う「かったて祭り」が31日、桜川市真壁町山尾の五所駒瀧(ごしょこまがたき)神社で開かれた。同神社の氏子や子どもたちが同神社裏の権現山を登り、富士浅間神社に神火を奉納した。

祭りは、平安時代に平将門が伯父である平良兼の住む竜ケ井城を攻めた際、山中に逃げ込んだ良兼をたいまつを持って追ったのが起源と伝えられる。「かったて」は、たいまつで山をたき上げるなどの意味。

祭りは毎年この日に開かれ、真壁の夏の終わりを告げる風物詩となっている。

山尾地区の住民などが、竹とまきでできた計約80本のたいまつを担いで険しい山道を登った。山は炎の光で赤く染められ、一行が目的地に到着したことが確認されると、神社脇から花火が上げられた。

田林遥叶(はると)君(12)は「登るのはつらいけど(山から)真壁が見渡せていい」と話した。