Posts Tagged ‘毎日新聞’

ふれあう人のお役にたちたい

水曜日, 9月 24th, 2014

女の気持ち 私の終活 毎日新聞 20140924

8月末、85歳の誕生日を迎えました。

いよいよ身辺整理をしなくてはと思います。

元気に生活していますが、血圧が高いため、いつひっくり返るかもしれないという不安があります。

そんなことになったら、家の中を見回してみて恥をかいてしまうと思っていました。

しかし、今は自分が恥をかかないためではなく、

後始末をしてくれる人の手間を少しでも省かなくては申し訳ないと思うのです。

長年着ていない洋服、はかなくなった靴、古い年賀状、写真。

捨ててもいい物がいっぱいあります。

でも、50年以上になる日記は、特別秘密があるわけではないけれど、

何としても自分の手で処分しておきたいのに、今は決心がつかないでいます。

遺言を書いて置いてある場所を知らせておこうと思っています。

お棺に入れてほしい物を言っておくつもりです。

お医者様に延命治療をしないでほしいとお願いしてあります。

一番大事なことですが、御住職様に自分の希望する葬儀の仕方にご理解をいただきたいと思っています。

心の中の整理はついたような気持ちです。

残りの人生の中で、ふれあう人に私が何らかのお役に立てることがあったら、うれしいと思います。

秋の全国交通安全運動出陣式 

火曜日, 9月 23rd, 2014

秋の全国交通安全運動 ハンドベル演奏 取手署で出陣式 毎日新聞20140923

取手署は、「秋の全国交通安全運動」の出陣式を取手市桑原の同署で開いた。

交通安全母の会など約100人が出席。同署が「心静かに安全を願いたい」

と出演を依頼した、取手一高ハンドベル部10人がホルストの「木星」など3曲を演奏した。

鈴木花音(かのん)部長(2年)は「事故を減らせるよう気持ちを込めて演奏した」。

同署の渡辺則雄署長は、今年は管内での交通事故による死者が出ていないことから

「このままゼロを更新し続けたい」とあいさつした

小沼新聞舗は取手JAZZ DAYz!2014チケット取扱い中

火曜日, 9月 23rd, 2014

取手ジャズ・デイズ!:プロとアマが演奏 27、28日 毎日新聞20140923

プロとアマのジャズ演奏を堪能できる「取手ジャズ・デイズ!」が

27、28の両日、取手市民会館(同市東1)と、隣接する福祉会館で開かれる。

28日のプロ3バンドのうち、ドラムの村上“PONTA”秀一率いる

ポンタボックスは1995年以来、19年ぶりのオリジナルメンバーによる復活ライブとなる。

同市文化事業団が主催。アマ演奏は無料で楽しめ、

27日はすべてアマ演奏となっている。

同日午後2時から東京芸術大生のマリンバ五重奏で開演。

続いてメロウサウンズ(取手市)やホーンフリークス(つくば市)など4バンドが演奏し、

同時に福祉会館中庭でも計7バンドのステージがある。

28日はアマバンドのほか、午後5時からプロの演奏がスタート。

オルケスタ・リブレとスガダイロー▽大坂昌彦スペシャルユニット▽ポンタボックスが出演する。

前売り券2000円、当日券2500円。問い合わせは市民会館(0297・73・3251)

毎年コメの生産量に匹敵する量約800万トン近くの食品が無駄に

火曜日, 9月 23rd, 2014

余録 秋は食欲の季節である。毎日新聞余禄 20140923

秋は食欲の季節である。露店の焼きそば屋でマツコ・デラックスさんが

「それのどこが大盛りなのよ」と抗議するCMがある。

「それならこっちにしなさいよ」というナレーションとともに

「超大盛り」のカップ焼きそばが大写しになる。

大皿に山盛りのナポリタン、麺にのせた野菜炒めや焼き豚が器から

あふれそうなラーメンなど特大の盛り付けで知られる飲食店が、

雑誌やテレビで特集される。なにやら「大盛り」を超える「超大盛り」が人気のようだ。

そんな流行は人ごとと思っていたが、そうとも言えない。

昼食に入ったそば屋のメニューに「国産そば粉だけを使っています」とただし書きがあった。

喜んでざるそばの大盛りを頼んだが、期待は落胆に変わった。

量が足りないのだ。「どこが大盛りなのよ」というせりふが頭をよぎったしかし。

国産のそば粉はそれだけ貴重で高価なのだろう。

当然「超大盛り」のメニューはない。

「それなら中国産にしなさいよ」という声が聞こえてきそうだ。

日本蕎麦協会によるとそば粉の自給率は約3割で輸入品の大半は中国産だ。

天ぷらそばになると海外依存度は一段と高まる。

衣になる小麦粉やエビの自給率は輪をかけて低いからだ。

日本の食料自給率(カロリーベース)は39%しかない。

それなのに毎年800万トン近くの食品が無駄に捨てられている。

コメの生産量に匹敵する量だ。

今日は秋分の日。

彼岸の中日にあたり、農作物の収穫期とも重なる。

先祖の霊に手を合わせるとともに自然の恵みに感謝し、

食生活の無駄を省みる日にしたい。

ずっと「超大盛り」を食べられるとは限らないのだ。

「戦時ポスター展−画家たちの戦争」とりでアートギャラリー

火曜日, 9月 23rd, 2014

散歩道 戦時ポスター展開幕 毎日新聞20140923

「戦時ポスター展−画家たちの戦争」が22日、

取手市新町の「とりでアートギャラリー」で始まった。

満州事変以降、国が画家に描かせたポスター24枚を展示。

横山大観や藤田嗣治ら著名な画家の作品も含まれる。

25日まで開催。入場無料。

国道6号バイパス藤代新町高架橋壁面

金曜日, 9月 19th, 2014

DSC08149

DSC08147

DSC08143

反対南面に目をやると

DSC08142

DSC08141

DSC08140

DSC08139

DSC08138

国道6号バイパス新町高架橋壁面

吉丸さんの「日本の四季」に 来月20日色付け、参加市民募集

毎日新聞 20140831

取手市は、同市藤代の国道6号バイパス新町高架橋壁面に描く絵を、

つくば市在住の元映画配給会社宣伝部長、吉丸(よしまる)富太さん(77)の作品

「日本の四季」にすると発表した。

壁画は9月9日から制作を始め、10月下旬に完成予定。

市は9月20日の色付けに参加する市民を募集している。

原画は「国際壁画コンペティション取手」として公募し、

6カ国17人から計22点の応募があった。主催者が5点を選考し、

市民投票を行った結果、吉丸さんの作品が計598票のうち最多投票の231票を得た。

同高架橋壁面は縦4.5〜5.1メートル、長さ32メートル。

市は落書き防止などのため、2000年から市内各地で壁画制作を行っており、

今回の作品は12カ所目となる。

吉丸さんの作品は子どもが正月にたこ揚げ、夏には海水浴、

そして、冬には雪だるま遊びなど四季折々を楽しむ様子が描かれている。

吉丸さんは「高架下は暗い感じなので明るくしたかった。

分かりやすく、親しまれるような楽しい絵柄にした」と話している。

色付けの参加申し込みは9月12日まで受け付けている。

問い合わせは市文化芸術課(0297・74・2141)。

20140831_156

茨城県内の高齢者率が25%を超えた

月曜日, 9月 15th, 2014

茨城県内の高齢化者が県総合人口に占める割合=高齢者率が25%を超えた

 

高齢者人口:過去最高の74万9540人 県統計課、全44市町村で増加

毎日新聞 20140913

15日の敬老の日に先立ち、県統計課は、県内65歳以上の高齢者人口を発表した。

同日現在の推計で74万9540人(男性33万5526人、女性41万4014人)に上り、

総人口に占める割合は25・8%だった。

人口、割合ともに過去最高を更新し、高齢者の割合は全44市町村で増加している。

常住人口調査による高齢者数は7月1日現在、前年同期比2万5306人増の74万4228人。

割合は同1・0ポイント増の25・6%だった。地域別に割合を見ると、

前年同期で25%を上回っていたのは県北だけだったが、

今年は県南を除く県北、県央、鹿行、県西の4地域が25%を超えた。

市町村別では、(1)大子町39・4%(2)利根町36・2%(3)河内町33・0%

(4)常陸太田市32・5%(5)常陸大宮市32・0%の順に高く、

計31市町村が25%以上だった。

一方、高齢者の割合が低いのは(1)つくば市、守谷市18・2%

(3)神栖市19・8%(4)東海村、ひたちなか市22・9%だった。

^ ^*

恒例 敬老の日イベントは

母と買い物してホームパーティーです。

主役のカワガニちゃん オスメスパシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

DSC08086

DSC08087

DSC08089

指紋使ったモザイクアート 世界最大、ギネスに挑戦

金曜日, 9月 12th, 2014

指紋使ったモザイクアート 世界最大、ギネスに挑戦 青年会議所、参加者2000人募集

つくばで来月26日 毎日新聞 20140911

指紋を使った世界最大のモザイクアートを作ろうと、

つくば青年会議所(JC)が来月26日、つくば市研究学園5のショッピングモール

「イーアスつくば」でイベントを開催する。

ギネス世界記録の認定を目指しており、

今月29日から約2000人の参加者を募集する。

同JCによると、指紋のモザイクアートは現在、中国の28平方メートルが世界記録。

今回は縦3メートル、横10メートルの30平方メートルを計画している。

原画は、仏ルーブル美術館後援の「こども絵画コンクール」で銀賞に輝き、

同美術館に作品が展示された市立竹園東中1年の谷上瑶(よう)君(12)に制作を依頼。

筑波山や宇宙ロケットなどつくばの象徴をあしらったデザイン画が仕上がっている。

イベントでは36色を用意し、参加者が1人当たり約35カ所に指紋を押印し、

約3時間で絵を完成させる。

参加資格は小学4年生以上。

募集期間は9月29日〜10月10日(先着順)。

企画した同JC活性化委員会の豊嶋英之委員長(38)は「小中学生に多く参加してもらいたい。

世界一となる喜び、達成感を親や参加者と共有してほしい」と参加を呼び掛けている。

問い合わせは同JC(tsukuba.jc.youth@gmail.com)。

守谷市 市民の顔をトップページに FB掲載、50組を追加募集

木曜日, 9月 11th, 2014

守谷市 市民の顔をトップページに FB掲載、50組を追加募集 毎日新聞 20140911

守谷市は10日、市公式フェイスブック(FB)のトップページに掲載する市民の顔写真を募集し始めた。

すでに19組を掲載しており、約50組を追加募集する。

市シティプロモーションマネージャーの進藤道子さんは

「多くの市民にフェイスブックの顔(フェイス)になっていただきたい」と参加を呼び掛けている。

同市の公式FBは6月1日スタート。

先月のイベント「ようこそ守谷へ」で参加者の顔写真を撮影し、

FBトップページは記者会見用パネルのマス目に顔写真を1枚ずつはめ込むデザインにした。

募集締め切りは今月末。

市役所1階に設置している同パネル前で撮影し、電子メールで市秘書課に応募してもらう。

「87歳の新人です」ハイチのマザー・テレサ

日曜日, 9月 7th, 2014

毎日新聞 20140907

ストーリー ハイチのマザー・テレサ 87歳医師の再始動

 夏の青空が広がった。静岡県御殿場市の富士山のふもと。125年前にフランス人宣教師が開いた神山(こうやま)復生病院は、イチョウやカエデが茂る広大な森林に囲まれるように建っていた。

日本最古のハンセン病療養所には70〜90代のハンセン病の元患者7人が暮らし、ホスピス病棟には余命6カ月以内と診断されたがん患者約20人が人生最後の日々を過ごす。病院近くでバスを降りると、「ウィンプル」と呼ばれる白色の布をかぶり、首から木製の十字架を下げた小柄な女性が駆け寄ってきた。「お久しぶりですね。ほら、見てください。もう走れるようになったんですよ」。ウオーキングシューズを履いた足で小走りを繰り返した。医師で修道女の須藤昭子さん(87)だった。

1年前、カナダ・ケベック州にあるクリスト・ロア宣教修道女会本部で会った時は手押し車がなければ歩けないほどやつれていた。「負けてたまるかって。リハビリを頑張りました」

ハイチのマザー・テレサ−−。日本のボランティア関係者らは畏敬(いけい)を込めてそう呼ぶ。西半球の最貧国といわれる島で、体調を崩した昨年7月までの36年間にわたって専門医として結核患者の治療や貧困対策に当たってきた。けれども、須藤さんはかぶりを振った。「私は他人を憎らしいと思うこともあるし、聖人ではない。美化しないでほしい」

その須藤さんは今年6月、神山復生病院にやってきた。療養のためではない。余命宣告された患者の苦痛を和らげる終末期医療に携わるためだ。「87歳の新人です」。口元を緩めた。「10年ほど前『治療をしない治療』があると聞いて興味を持ち、いつか関わりたいと思ってました」

生きられる人を助ける医療から、生きられない人を助ける医療の道へ。

「死が間近に迫ると、人は何を考えるんでしょうか。ハイチでいっぱい亡くなる人を見てきたけど、これだけは分かりません。勉強中です」

再始動を誓う口調は力強かった。ハイチでもそうだったのだろう、140センチほどの全身が「信念」の塊のようだった。

「死の病」に献身36年

窓にひびの入った日本車が穴の開いた道路を行き交い、路上では裸足のストリートチルドレンたちが物乞いする。カリブ海の島国ハイチ。旅立った梅雨時の日本とは違って、はるかに強い日差しが照りつけていた。

人口は約1013万人、四国の約1・5倍の広さで、多くの国民が1日1ドル以下で生活する。2010年1月には大地震に見舞われ、約32万人が死亡した。それから4年がたつというのに、首都ポルトープランスには、倒壊した建物のがれきが大量に残されていた。

ポルトープランスから国道を走ること約1時間半。海沿いの町レオガンに結核専門病院「国立シグノ結核療養所」はある。昨年7月までの36年間、医師でカトリック修道女の須藤昭子さん(87)が半生をささげてきた病院だ。東京ドーム1個分の広大な敷地に病棟や診療所など6棟の建物が並ぶ。

世界保健機関(WHO)の07年の集計では、ハイチの結核患者数は人口10万人当たり306人。日本は21人、米国は4人、隣国のドミニカ共和国でも69人であることを勘案すれば、ハイチの罹患(りかん)率は高いうえ、「いまだ死に至る病として恐れられている」(ハイチの医療関係者)。

シグノ療養所でとりわけ大きく立派なコンクリート造りの平屋の病棟があった。私が訪ねたときは、ベッドなどの医療設備が届いておらず患者はいなかった。事務長のハイチ人シスター、エブリン・モリーネさん(62)が案内してくれた。

「療養所は1948年に開院しました。大地震で病棟は倒壊してしまったのに、ハイチ政府は何もしてくれない。シスター・アキコ(須藤さん)は、プレハブで診療していたんです。この病棟は彼女が日本政府と交渉して支援を引き出し、建ててもらったんです」

「アキコ」と呼ぶ声に親しみがこもる。モリーネさんは須藤さんと30年以上ともに活動してきた。

「アキコの献身がなければ、今のシグノ病院はなかったでしょう」

印象的な出来事があったという。04年、独裁的な政権運営が批判されていたアリスティド大統領(当時)と、退陣を求める武装集団との戦闘が激化し、ハイチは事実上内戦状態に陥っていた。路上には遺体が転がり、略奪が相次いだ。外国人が大挙して出国する中、モリーネさんが須藤さんに帰国するよう勧めると、こんな答えが返ってきた。

「私が離れたら誰が患者さんの世話をするの」

モリーネさんは言った。「シスター・アキコを『ハイチのマザー・テレサ』と呼ぶ人がいますけど、私もそう思います。尊敬できる人でした」

「ひどい状況でした。想像をはるかに超えてね……」。須藤さんはそう独りごちながらハイチでの日々を語り始めた。ハイチの療養所で活動を始めたのは1977年12月。50歳になっていた。

その前年、カナダ・ケベック州にある修道女会の本部でフランス語を学んでいた。ある日のこと、新聞記事が目に留まった。「ハイチ 成人の死亡原因トップは肺結核」。「日本の結核対策をハイチに持ち込めば状況を改善できるかもしれない」。結核専門医の須藤さんはハイチへの派遣を修道女会に申し出た。「ハイチは四国よりちょっと大きいくらいだから簡単に改善できるだろうって軽く考えちゃって。おっちょこちょいなんですよ。行ってみたら、現実は大違いでした」

ハイチ政府から提案されたのがシグノ療養所での勤務だった。「療養所なんて名ばかりで、患者さんの『死に場所』だった。治療せずに隔離していただけ」

「アジール」(避難所)と呼ばれていた敷地には、結核患者をはじめ、ホームレスや精神を病んだ人たち、障害者など行き場のない人たち数百人が集められていた。毎週土曜日になると、小型トラックに30人ほどの患者がぎゅうぎゅう詰めにされてポルトープランスからやって来た。「トラックが到着すると、積み荷のように運転手が患者を放り投げるんです。びっくりして目を覆いましたよ」

療養所には電気や水道、電話はなく、ベッドすらない。やせ細った患者がむしろに寝かされているだけだった。抗結核剤が国から支給されていたが、看護師が勝手に売り払い、療養所には残っていなかった。「あるのは2本の注射器と5本の針だけ。肝心の医師は結核への感染を怖がって病院にほとんど来ないんです」。患者の遺体は段ボールに入れて空き地に埋められていたという。

「ハイチに来たのは間違い。医師としてできることはない。日本に帰る」。来てまだ3週間だったが、ひどい状況に音を上げかけた。そんな時、須藤さんを思いとどまらせたのは1本の電話だった。

「カナダからあなたに電話がありましたよ。この番号に折り返してください」。帰宅しようとした須藤さんを門衛が呼び止めた。心当たりがなかったが、電話局に行き、国際電話をかけた。相手は見ず知らずのカナダ人女性だった。

「あなたのためにお金を集めました」。女性は須藤さんがハイチに出発する際、カナダで開かれた「派遣式」で、須藤さんの講演を聴いていた。心を動かされた女性が知人から寄付金を募っていた。「応援してくれる人がいるんだから諦めずに頑張らなきゃって。私って単純なんです」

しばらくして、カナダから寄付金が届いた。須藤さんはまず、病院の設備を改善するために動いた。カナダに戻って中古のベッド200台を買い、コンテナでハイチに送った。日本の自動車会社に頼んでライトバン2台を寄付してもらった。大阪に行き、大学教授の友人と一緒に薬問屋を回って薬を集めた。療養所の食事は須藤さんが集めた寄付でまかなった。

水道がなく、下水で体を洗っていた患者らのために井戸を掘った。「機械がないので、ハイチの人たちと一緒に掘りました。30メートルほど掘って水が出てきた時は本当にうれしくて。みんなで輪になって踊っちゃいました」

活動は病院の外にも広がった。首都ポルトープランスに隣接するシテソレイユ。狭いエリアに20万〜30万人がひしめく西半球最大級のスラムだ。治安もいいとは言えない。けれども須藤さんは何年もの間、退院後の患者の様子を見にこの地に通った。

須藤さんの活動は次第に知られるようになり、日本やカナダで支援の輪が広がっていった。「患者の死に場所」だった療養所は80年代半ばになると、ハイチでも屈指の設備を備えた病院施設に変わっていた。

須藤さんは「私だけでは何もできませんでした。私は善意の受け皿になっているだけなんです」と話す。しかしモリーネさんの同僚で須藤さんを知るハイチ人のシスター、オシアン・ガブリエルさん(50)は言った。

「シスター・アキコのすごいところは行動力。思いついたことは、絶対に諦めず、必ず実現させるんです」

一方で、日本人とは育った環境も価値観も違うハイチ人と理解し合えないことも度々あったという。

80年ごろの話だ。男性の入院患者が「こんなまずい物食えるか」と、食事を放り投げた。須藤さんは「あなたのような患者を世話する気にはなれない。私は二度とこの病院には来ない」と怒った。実際、その日から病院に姿を見せなかった。

「わがまま言うからシスターが来なくなっただろ」。他の患者たちが怒りだし、男性を病院から追い出してしまった。実は、予定していた休暇を取っていたのだが、善意を踏みにじる男性の振る舞いは見過ごせなかった。男性の行方は分からないという。

終末医療、新たな目標

その行動力は、育った環境と無縁でないかもしれない。1927(昭和2)年、当時日本が植民地支配していた朝鮮半島の雄基(ゆうき)(現在の北朝鮮北部)で生まれた。父は穀物を日本に運ぶ貿易会社を経営していた。友人には朝鮮人やロシア人らがおり、「外国人への垣根は幼少からありませんでした」。

41年12月の太平洋戦争開戦の少し前、一家で父の実家のある広島県に戻り、44年に大阪女子高等医専(現関西医科大)に進学した。やがて迎えた敗戦。再び朝鮮に渡っていた父が生きて故国の土を踏むことはなかった。けれども兵庫県の叔父の支援で学業は続けられた。身を寄せた叔父一家は熱心なカトリック信者だった。しかし、須藤さんは全く興味がない。お祈りを、と言われても「信じてもないのにまねするのは偽善だ」とはねつけた。

そんな須藤さんの価値観を変える出来事が48年冬に訪れた。カナダのクリスト・ロア宣教修道女会が兵庫県内の古びた建物を買い取り、医療活動の準備をしていた。修道女会の相談に乗っていた叔父と、建物を訪れた時のことだ。2階に上がると、カナダ人のシスター数人が、泥や汚れがべっとりとこびりついた床をガラスの破片で丁寧にこすって落としていた。彼女たちの表情は明るかった。

「『死の病』と恐れられていた結核患者の世話をするために貨物船に2週間も乗ってやって来て、なぜこんなに楽しそうに働けるのか」。須藤さんは衝撃を受けた。自問自答するうち一つの答えにたどり着く。信仰。「神の導きがあるという確信があるからこそ、困難を困難と思わず全力で生きられるんだ。私もそういう生き方をしたい」

医師になった50年当時、結核は日本人の死因の第1位だった。迷わず結核専門医の道を選んだ。56年には28歳で修道女会に入会し、シスターになった。一方で、国内の結核病棟で経験を積んだ。その先にハイチがあった。

ハイチでの活動は昨年7月に体調を崩すまで36年間に及んだ。須藤さんに影響を受け、昨年から年に1回、シグノ療養所で結核患者の無料診断をしている医師の小澤幸子さん(40)は感嘆する。「長年ハイチで活動してきた忍耐力、精神力は本当にすごい。他の人はまねできない」

それ以上に驚かされたのが須藤さんの人生の選択だったという。カナダ、東京で療養し、そのまま一線から退くと思われたが、次の目標に据えたのは終末期医療だったからだ。その理由について、当の須藤さんは「私はやりたいと思ったことをやってるんです。ハイチでの活動もそうでしたし、ホスピスのそれも同じです」と淡々としたものだ。

ただ、小澤さんはこんな話をしてくれた。「シスター須藤はハイチで簡単に失われる命をたくさん見てきたことで、より近いところ、深いところで、亡くなる人に寄り添いたいと思うようになったのではないでしょうか」

窓から富士山が望めた。静岡県御殿場市の神山復生病院ホスピス病棟にあるラウンジ。6組の机と椅子が並んでいた。「ここで患者さんの話を聞くんです。どんな言葉を返したら良いのか、どんな相づちで聞けば良いのか。いろいろ勉強です」。担当医師からの依頼で、週2回ほど患者に向き合う。会話などを通して患者の苦しみを和らげる「緩和ケア」に当たっている。

須藤さんと一緒に病棟を歩いた。廊下にはハンセン病の元患者が創作した油絵や詩が飾られ、20ある部屋はすべて個室だ。部屋の一つをのぞくと高齢女性がベッドに座り窓の外を見ていた。「どんなことを思ってるんですかね。残される人のことか、これまでの人生のことか。ハイチでは死が迫っている患者さんを世話する余裕はありませんから、すごく新鮮なんです」

須藤さんと会うのは、昨年8月にハイチでの活動を取材するため、カナダ・ケベック州で療養中のところを訪ねて以来だった。須藤さんにハイチは恋しくないのか聞いた。「そりゃあ、恋しいですよ。今でもしょっちゅう考えます。でも、年齢と体調の問題で(修道女会の)本部が決めたことですから仕方ない」。自分に言い聞かせるように話した。そして、続けた。「でも、どこにいても、自分のベストを尽くすだけです。限りある命。生まれたからには、自分なりに全力で生きないともったいないです。私はそう思います」

須藤さんが精魂を傾けたハイチのシグノ療養所には現在、数十人の結核患者が入院生活を送り、いまもシスター・アキコの名前は語り継がれている……。そう伝えようと思った言葉は、前を見すえる笑顔にのみ込まれた。