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教え子の胸に生き続ける名将 木内幸男さん

木曜日, 12月 10th, 2020

【常磐路ノート】教え子の胸に生き続ける名将 木内幸男さん

産経新聞 20201210

 11月24日に89歳で死去した高校球界の名将・木内幸男さん。2日に茨城県取手市内で営まれた通夜には教え子が大勢駆け付けた。プロ野球・日本ハムの野手総合コーチ、金子誠さん(45)もその一人だった。

 常総学院が平成5年夏の甲子園で4強入りしたときの主将。日本ハムでは堅守の内野手として活躍した金子さんの木内さんに関する記憶は今も鮮明だ。本来は右打者だが、「監督に『左で打て』といわれたことがある」と回想する。

 懸命に左で素振りし、翌日の練習で左打席に立った金子さんを指揮官は「ふざけてるのか!」としかりつけた。「『左で打て』は、『右で打ってそんなものか』というもののたとえだった、と。こっちは真剣だったのに」と金子さんは苦笑する。

 厳しい言葉を浴びせ続ける木内さんへ「何だこのクソじじい!」と反発心も抱いたが、3年夏の甲子園出場時、鬼監督は「すっかり優しいおじいちゃんに変わった」という。「目標は優勝ではなく、『国体に行けるところ(ベスト8)までがんばろう』だった。2年間鍛えて、最後は好きなようにやらせてくれた」

 卒業後の進路で、木内さんには「お前は大学野球には向かない」と指摘を受けた。「僕は(守備の)捕り方、投げ方が独特だったので基本にうるさい大学には向かないと。おかげでプロで磨くべき個性は磨けたかな」と将来の道筋をつけてくれた恩師に感謝する。

 金子さんは亡くなる2日前、木内さんの夢を見たという。「虫の知らせですかね。監督のノックを僕が受けていた。元気な姿を僕の中にとどめておきたい」。それぞれの思い出の中に名将は生き続ける。

清原和博氏「衝撃的」名将木内監督の伸び伸び野球に

日曜日, 12月 6th, 2020

日刊スポーツ

西武、巨人、オリックスでプレーした清原和博氏(53)が5日、野球界を語った。一般財団法人グリーンシードベースボールファンデーションの代表理事として、中日OBの立浪和義氏らと西東京市で小学6年生を対象とした野球教室を開催。日本シリーズ、注目の強打者、12球団合同トライアウトを受験する新庄剛志氏や西武松坂大輔投手、11月に死去した取手二、常総学院の監督だった木内幸男さんの思い出など、幅広く語った。

先月、取手二、常総学院(ともに茨城)で監督として3度の甲子園優勝を果たした木内さんが死去した。清原氏はPL学園(大阪)で高校2年の夏、甲子園の決勝で取手二に敗れている。

「6月に取手に練習試合で行って、10-0ぐらい(13-0)で勝っていた。まさか甲子園で負けるとは思わなかった。PLは3年間全寮制で管理された野球だった。(取手二は)選手が笑顔で伸び伸び野球をしていた。それが衝撃的で。やんちゃな軍団を木内監督がまとめていた。本当にすごいなと思う。甲子園の名将が亡くなるのは残念」

この試合は清原氏にとって、夏の甲子園では唯一の黒星だった。木内監督は9回、高校野球では当時、異例だったワンポイント継投を繰り出した。大会中にはご褒美に海水浴も認めた。心に刻まれた一戦だ。

取手二高校歌 作詞 西条八十 作曲 古関裕而

日曜日, 12月 6th, 2020

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木内幸男さんの追悼番組📺に感動しました。

さらに・・

「取手二高の校歌って 今話題の作曲家なんですね」

木内幸男さんと天台宗・東漸寺の吉岡賢眞さん

日曜日, 12月 6th, 2020

日刊スポーツより

木内幸男さんの通夜、告別式でお経を上げた住職は、教え子だった。天台宗・東漸寺の吉岡賢眞さん(57)は、取手二が81年夏の甲子園に出場した際の二塁手。「恩師を送れるのはなかなかできないこと。一番の幸せです」。戒名の「常光院摂取球誉幸叡清居士」には「常総で光り輝き、摂取はいろいろな選手を取手に集めたこと。球誉は野球で県民栄誉賞。叡は深い考え」が込められた。・・・・・・・

茨城・取手市役所に木内さんの記帳所設置

土曜日, 12月 5th, 2020

産経新聞 20201205

 高校野球の監督として茨城県の取手二、常総学院の両校で甲子園の春夏3回制覇を果たし、11月24日に89歳で死去した取手市の名誉市民、木内幸男さんを追悼するため、市は4日、市役所に記帳所を設置した。11日まで。

 記帳所には遺影のほか、昭和59年夏に同市役所で開催された甲子園へ向かう取手二の壮行会の写真などが飾られている。新型コロナウイルスの感染が心配な人や遠方の人のため、市のホームページからも記帳できる。市では記帳する人の便宜を図るため、土日も正面玄関を開放する。

 設置と同時に駆け付け一番乗りで記帳した取手市本郷の社会福祉士、貫井徹さん(73)は「木内さんは取手二を通じて取手の名を全国に広めてくれた。家が近所で、約10年前に市役所から自宅まで軽自動車で送ったのが良い思い出」と話していた。

木内幸男氏オンライン記帳

金曜日, 12月 4th, 2020

名誉市民 木内幸男氏を追悼するオンライン記帳はこちらから

木内幸男氏オンライン記帳 12/4

木曜日, 12月 3rd, 2020

取手市名誉市民 木内幸男氏を追悼する記帳はオンラインで(12月4日から)
令和2年12月4日(金曜日)から令和2年12月11日(金曜日)まで

各日午前8時30分から午後5時15分まで

 

通夜のニュース 20201203

茨城新聞 いばらき春秋

記者としてかなわなかったことの一つに「木内幸男番」がある

高校野球取材の応援に駆り出され、常総学院の試合に関わった時だけ、「ぶら下がり」や「囲み」ができた。木内さんは、稚拙な問いにもサービス精神たっぷりに答えてくださり、本当に勉強になった

よりお世話になったのは、木内さんが監督を退任し、こちらがスポーツ報道の責任者に就いてからだ。当時、茨城新聞社には木内さんの映像がなかった。2015年にロングインタビューを企画し、土浦市営球場で収録させていただいた

記事は2回に分けて掲載。社の宝と言える映像は、ユーチューブで今も視聴できる

16年に常総学院がセンバツに出場した際には、甲子園に行かずテレビで見るという木内さんに観戦記をお願いした。快諾してくださったが、「原稿料」は固辞された。「茨城新聞は仲間だから、取材を受けるのは義務。お礼なんていい。社長が俺のことを見掛けたら、声を掛けてくれればいいんだ」と笑った。好物の甘味を差し入れさせていただいた

先月24日に亡くなった木内さんの告別式が、きょう取手市内で行われる。木内さんの大いなる「遺産」を、常総学院はじめ高校野球関係者に連綿と継承し発展させていってもらいたい。(仁)

スポニチ

肺がんで11月24日に死去した元常総学院監督の木内幸男氏(享年89)の通夜が2日、茨城県取手市の「やすらぎ苑」で営まれた。取手二、常総学院の監督として春夏通算3度甲子園で優勝し、甲子園通算40勝の名将。雨が降る中で参列した約2400人が故人との別れを惜しむ中、常総学院時代の教え子で来季はDeNA2軍監督となる仁志敏久氏(49)は「木内イズム」の継承を誓った。3日に同所で葬儀・告別式が行われる。
祭壇は野球のダイヤモンドをかたどって花が飾られ、棺の上には故人が愛用したグラウンドコートと3つの甲子園優勝メダル。そしてサインボールが一つ置かれていた。巨人時代に仁志氏が贈った思い出の品だ。故人が大切にしていたもので、3日に棺に入れられて一緒に天国へ持って行くという。

遺影を見つめ、静かに手を合わせた仁志氏は言った。「思い出はたくさんあり過ぎて何か一つを思い出すことはできない。元気に大きな声でしゃべって歩き回っている姿が焼き付いてます…」。87年に常総学院に入学し、すぐに素質を認められた。1年春からレギュラーで夏の甲子園で準優勝。まさに木内野球の申し子だ。試合中は常にベンチで隣に座って監督の言葉に耳を傾け、3年になると監督よりも先にチームへ指示を出すようになったという。「木内さんがいなかったら今の自分はない。親以上の存在です」と懐かしむように話した。

来季からはDeNAの2軍監督に就任し、恩師と同じ指導者の道を歩む。故人が入院する前日の10月28日に87年準優勝時のエースで常総学院・島田直也監督と取手市の自宅を訪れ、就任を報告。それが最後の機会だと分かっていたようで声がほとんど出せない状態でも、喜んでいる様子だったという。「元気だったらどんな話をしてくれたんでしょうね」。でも、故人の教えは心に焼き付いている。

「(木内監督の教えは)考えて野球をすること。状況を考え、状況に応じた答えを出しなさい、と。プレー前に考えて準備する」。育成、チーム力の底上げを担う2軍監督として、その教えを着実に生かす。この日、厳しくも優しかった故人を思い、意を強くした。

遺影の写真は優勝した01年センバツ当時のもの。甲子園で野球ができる喜びにあふれた表情で、教え子の門出にほほ笑みかけていた。(秋村 誠人)

《戒名に「常光」と「摂取」》木内氏の戒名は「常光院摂取球誉幸叡清居士(じょうこういんせっしゅきゅうよこうえいせいこじ)」となった。「常光」は常総学院で「常に光り輝いていた」、「摂取」は取手二で「選手を集め、新しいものを取り入れた」、「球誉」は「野球で茨城県民栄誉賞、取手市名誉市民など名誉を得た」という意味。「叡」には「考え深い」の意があり、故人の球跡をたどり表すものとなった。

◆主な参列者 中島彰一(日本製鉄鹿島監督)、仁志敏久(DeNA2軍監督)、島田直也(常総学院監督)、小菅勲(土浦日大監督)、松沼雅之(解説者、茨城トヨペット投手コーチ)、金子誠(日本ハム野手総合コーチ)、前田三夫(帝京監督)、内田靖人(楽天) =順不同、敬称略

毎日新聞

仁志さん「死ぬまで原点に」 2400人が別れ惜しむ 常総学院・木内元監督通夜

11月24日に89歳で亡くなった取手二高や常総学院の元監督で、甲子園で3度の優勝経験がある木内幸男さんの通夜が2日、茨城県取手市内で営まれ、球界関係者や両校のOBら約2400人が木内さんとの別れを惜しんだ。

木内さんのひつぎの上には、常総学院の監督時代に着ていたジャンパーや、甲子園優勝のメダルが置かれた。

1987年夏の甲子園で同校で準優勝し、来季からDeNA2軍監督を務める仁志敏久さん(49)は、「現役を引退して指導者という立場になってから思い返したのは木内さんのこと。死ぬまで原点になると思う」と話した。同校から3季連続で甲子園に出場した日本ハム野手総合コーチの金子誠さん(45)は、「亡くなる2日前にノックを受ける夢を見た。『元気かな』と思った矢先で、言葉が出ない」と話した

茨城新聞

「天国でも野球を」

高校野球監督として取手二と常総学院を計3回甲子園優勝に導き、89歳で先月死去した木内幸男さんの通夜が2日、取手市内の斎場で執り行われた。プロ野球DeNAの仁志敏久2軍監督ら教え子や野球関係者が数多く参列し、偉大な功績をたたえながら名将をしのんだ。告別式は3日正午から、同所で行う。

同市市之代のやすらぎ苑会場入り口付近には、両校のユニホームと、1984年夏の取手二全国制覇の優勝盾が置かれた。祭壇は野球グラウンドを模して飾られ、常総学院が2001年春と03年夏を制した際の優勝旗レプリカも添えられた。夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」が流れ、参列者が焼香し別れを告げた。

常総学院OBの仁志さんは「特に会うでもなく連絡するでもなかったが、いつも気にしながら野球をしていた。寂しいとか悲しいというより、不思議な感じがしている」と心境を述べた。

同じく母校の監督を務める島田直也さんは、来春の甲子園出場が濃厚なことを踏まえ「采配を見てもらいたかった」と残念がった。03年優勝時の主将で現在は部長を務める松林康徳さんは「熱を持って子どもたちに接する姿勢を受け継ぎたい」と誓った。

取手二優勝メンバーも顔をそろえた。常総学院前監督の佐々木力さんは「残念。これまでも大病を克服していたので…。天国でも野球をするのではないか」と語った。土浦日大監督の小菅勲さんは「子どもの目線まで下げて野球を教えてくれた指導者だった」と振り返った。社会人・日本製鉄鹿島監督の中島彰一さんは「監督のおかげで今、監督ができている」と感謝した。

木内さんと幾度も名勝負を繰り広げた霞ケ浦監督の高橋祐二さんは「大会のたびにお話を聞き、一球の大切さを学んだ」と悼んだ。

 

サンスポ

木内幸男さん通夜に2400人が別れ 仁志敏久氏「常識で考える野球を学んだ」

高校野球の監督として茨城の取手二高、常総学院高を計3度の甲子園大会優勝に導き、11月24日に肺がんのため89歳で亡くなった木内幸男さんの通夜が2日、茨城県取手市の斎場で営まれ、雨が降る中、教え子ら約2400人の参列者が別れを告げた。

入り口には優勝盾やユニホームが飾られ、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」が流された。常総学院高OBで来季DeNA2軍監督に就く仁志敏久さん(49)は「形式ではなく常識で考える野球を学んだ」と振り返り「プレーの前に考え準備する。それを教えるのはこれからも変わらない」と語った。

産経新聞

高校野球で茨城県の取手二と常総学院両校の監督として甲子園で春夏計3度の優勝を果たし、11月24日に肺がんのため89歳で死去した木内幸男さんの通夜が2日、取手市市之代のやすらぎ苑でしめやかに営まれた。高校球界に多大な足跡を残した名将の旅立ちを悲しむような氷雨が降る中、市民や教え子ら約2400人が木内さんとの別れを惜しんだ。

常総学院が昭和62年夏の甲子園で準優勝したときのエースで、プロでも横浜(現DeNA)などで活躍。今夏、母校の監督に就任した島田直也さん(50)は「常総に恥はかかせられない。頑張ります」と霊前で奮闘を誓った。

チームは今秋の関東大会で準優勝し、来春予定される選抜大会への出場が有力視される。「こういうケースではどうすればいいのかといったことを聞きたかった」と恩師の死を惜しんだ。

島田さんと同じ準優勝メンバーで今秋、DeNAの2軍監督に就任した仁志敏久さん(49)は10月下旬、木内さんの入院前日に本人と対面。「だいぶやせて、会話も苦しそうだった」と回想する。「木内さんと出会わなければ今の自分はいない。親以上の存在だった」としみじみ。

取手二の優勝メンバーで、社会人・日本製鉄鹿島監督の中島彰一さん(54)は「普通の高校生だった自分たちがあんな舞台(甲子園)に立てたのは木内さんのおかげ」と感謝。同じく取手二で優勝し、現在は土浦日大監督の小菅勲さんは54歳を迎えた誕生日が偶然、木内さんの死去した翌日だった。「もう一度生まれ変われるように」と気持ちを新たにチームの指導に当たっていくという。

 

 

木内さんの「伝説」

日曜日, 11月 29th, 2020

Yahoo!ニュース
教え子が明かす「名将・木内幸男」伝説 “ヤンチャ軍団”を甲子園優勝に導いた「型破り指導」

木内幸氏死去 89歳

木曜日, 11月 26th, 2020

桑田真澄さん「野球観変わった試合」…木内幸男さん悼む
木内監督死去 「非常に残念」「悔しい」 県内から惜しむ声 /茨城
毎日新聞 20201125

取手二高や常総学院を率い、全国的に名将として知られた木内幸男さんの訃報に、県内関係者からも惜しむ声が上がった。

木内さんの教え子でもある常総学院の島田直也監督は「さっき聞いたばかりで気持ちの整理がつかない。僕の今後の監督としての姿を見てもらいたかった。だめなときに怒ってほしかった」と話す。

同校の佐々木力・前監督は「目標としていたが、超えられなかった存在。緻密な野球もそうだが、選手をその気にさせるのが本当にうまかった」と振り返る。23日にも面会したが意識はなかったという。「手を握って『がんばって』と伝えた。医師から『今日明日がやまだ』と伝えられたのだが……」と言葉が続かなかった。

同校の桜井平理事長は「非常に残念。島田監督の起用を相談したら、『強くなるよ』と褒めてくれた。次にセンバツに出たら、テレビでもいいから、見てほしかった。本当に悔しい」と話した。


 

木内監督死去 一夜明け 功績たたえる声 /茨城

毎日新聞20201126

取手二高や常総学院の野球部を率い、全国的に高校野球の名将として知られた木内幸男さんの訃報から一夜明けた25日、県内からは、あらためて功績をたたえる声があがった。

木内さんは1984年に取手二高の監督として県勢初の夏の甲子園大会優勝に導いたのを皮切りに、常総学院では2001年のセンバツ、03年夏の甲子園で全国制覇を成し遂げた。

大井川和彦知事はこの日開会した県議会本会議で「『木内マジック』は私を含め、県民に夢と『やればできる』という希望を与えてくれた」と冥福を祈った。

常総学院の松林康徳部長(35)は「まだ、いつでも会えると思っていた」とつぶやいた。03年に夏の甲子園で初優勝した時の主将。けがは多かったが、性格の明るさを買った木内さんが任命した。「どんな選手でも、輝く場所を作ってくれた」と話す。全員を公平に見るスタイルは今も引き継いでいる。「木内監督に見てもらっていると思って、頑張っていきたい」と話した。

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木内さんのもと、78年に取手二高で甲子園に出場、今は母校を率いる後藤賢監督(60)は、「まねできないくらい野球に情熱のある人だった」と振り返る。「選手の個々の能力を、たとえ高くなくても最大限に発揮させた。子供からしたらありがたいことだし、勝ち続けられた理由でもあったと思う。結果を出し続け、勝負の世界で生き抜いた。ご冥福をお祈りしたい」と話した。

取手二高時代の教え子で、常総学院では木内監督の下で2年間コーチを務めた、土浦日大の小菅勲監督(54)は、「選手時代はチーム愛を、コーチ時代は木内マジックと呼ばれる采配的な部分を学んだ。今の指導方針は木内DNAのたまもの」と話す。「体調が優れないと聞いていたが、見舞いに行けば『自分のチームがあるんだから』と叱られると思った。甲子園出場を決めて墓前に報告したい」と冥福を祈った。

木内さんは12年に取手市名誉市民の称号を贈られている。同市の藤井信吾市長は「日本全国においても名高く、穏やかな人柄から多くの人々に愛された。いつまでも壮健でいらっしゃると思っていただけに、ご逝去は残念でならない」とのコメントを発表した。

木内さんの葬儀の日程は、通夜は12月2日で一般参加は午後5時から6時半、告別式は3日正午、取手市市之代310のやすらぎ苑。喪主は長女の夫岡田誠さん。

論理的だった「木内マジック」
情を排し、情を動かす――。常総学院の野球部監督だった木内幸男さんの訃報に接し、脳裏に焼き付いている印象がよみがえってきた。新聞記者1年目の2003年夏。水戸支局で高校野球を担当し、木内監督にとって3度目の甲子園優勝までの道のりに密着した。決勝で対戦した東北(宮城)のダルビッシュ有投手(現米大リーグ・カブス)のような突出した選手がいたわけではない。その中で最大限の力を発揮するにはどうすればいいのか。いくつもの心得を目の当たりにした。変幻自在と言われる「木内マジック」だが、実際は論理的だった。

県大会を制した後の練習。誰が甲子園の土を踏めるのか? グラウンドに集まった生徒たちは緊張した面持ちで木内監督の言葉を待っていた。「外れるのは○○と○○……」。ベンチ入りする選手の名前を一人一人読み上げていくのかと思っていたが、夢舞台への「宣告」はあっけないほど一瞬で終わった。「3年生は最後の夏だから」。そんな「情実人事」も起こりそうな場面だが、情を排し、勝つ布陣に徹したように見えた。

木内監督は同年1月、新年最初の練習で引退を告げていた。新チームは「おとなしすぎる」と感じていた。夏の大会直前に言って動揺させるのではなく、早めに結束させようと考えたという。選手たちはここから、監督に花道を飾ってもらうことが目標になった。

「勝ちたい」ではなく「勝つ」。甲子園に出場したことに満足しがちな高校もある中で、常総学院は気迫が違った。ただ、悲壮感は感じられなかった。「やらされる」のではなく、強い主体性を持っていたからだと思う。甲子園の緊迫した場面でも守備は鉄壁で、次々とバントを成功させた。木内監督は「成功すると思って打席に立つからだ」と言った。

決勝の相手は、将来のプロ野球界で活躍が期待されるダルビッシュ投手を擁する強豪。木内監督は軽妙に「ヒットを打てば孫の代まで自慢できるぞ」と発破をかけた。「大物」の名前に圧倒されるのではなく、楽しむ雰囲気を作った。

木内監督は3度目の甲子園制覇で有終の美を飾る。優勝メンバーから同年のプロ野球ドラフト会議で指名されたのは遊撃手1人のみ。「超高校級」に対し、チームの最大限の力を引き出すことで頂点に立ったと感じた。