ホゥっと一息かわまちMAPデビューの日
ようこそとりでの会場にふくろういなりとともにお邪魔しました
雨宮さんからの差し入れは、準備中の関係者の皆様のお腹へ
「取手に越されて3年未満の方々に取手を知ってもらおう」というイベントです
市内で活躍されている団体・飲食店の模擬店は行列ができていました
^ ^*ちょこっとお手伝いしただけなのに、首回りが日に焼けてヒリヒリしています
今日は暑かったですね
産経新聞古典個展 ~産経新聞20120527~
立命館大教授・加地伸行 コンテストで政策募集せよ
2012.5.27 03:06
近ごろ世は老人いじめである。老人の年金額が多すぎる、医療保険費がかさみすぎる。優待乗車証を持っている…と老人批判が続く。老人は恵まれすぎているのがいけないという論法だ。
それはおかしい。老人とて年金の掛け金を若いときからそれなりに払ってきた。老人になれば病気が増え医者の世話になるのは当たり前。すき好んで医院に行くわけではない。優待乗車証がなければ家に籠(こ)もるばかりでかえって病気になり、医療費は増える。優待乗車証があれば街に出て元気になるし、うどんの一杯も食べるだろうから、ささやかながらも内需に寄与するではないか。
老人への悪口を言う前に、それでは老人に金銭を使わせ、どう老人を活(い)かすかを論ずるべきであろう。
例(たと)えば、私ならこう提案する。65歳以上の老人は小学校に再入学させる、と。ピカピカの1年生ではなく、シワシワの1年生。すでに義務教育は了(お)えているから、給食費はもちろん、授業料を取る。仮に授業料が月額5000円、50人クラスなら、月給25万円の若い教員1人分の雇用が生まれるではないか。
老人生徒は、ボランティアで植木の手入れ、一般生徒の登下校時の指導、担任の雑用の引き受け、教育関係データの収集…をしよう。学校の運営費の節約大となる。
1年生の授業は楽しいだろうなあ。授業内容は全部分かる。先生の質問に対して、ハイハイ、ハイハイと全員が挙手して、しかもマンテーン。先生が若い女性だったら、男子老人生徒はみんながんばって皆勤賞。老人医療費は大きく下がる。往年の野球少年たちは喜々として投げて打って走ってダルやイチローを目指す。先生がイケメンだったら、女子老人生徒はAKB48そこのけで活気に溢(あふ)れて大騒ぎ。あとは二流ホテルで豪快に食事。元気百倍、内需拡大。というような老人政策の一つも出してみよ。自民党よ、政権奪還をめざすならば、アッと驚くような、しかも楽しい、そして現実的な政策を出さないかぎり、明日はない。
しかし、自民党からは、極立(きわだ)ったものがなにも見えない。頭の硬化した人が多く、そういう人々があつまっても愚痴をこぼすだけであって、アイデアや新政策などとても出てきはしない。
とすれば、方法は一つ。すなわち、全国民を対象に新政策立案コンテストを開催することだ。独創的で鮮烈な、希望に溢れていてしかも現実性のある提案を募集せよ。賞金は借金してでも景気よく張り込め。最優秀賞は1億円、優秀賞3点は各3000万円、佳作10点は各1000万円というふうに。これで国民の心をつかめるのならば安いものだ。
それに、コンテストによる政策募集は、政権担当の与党では面子(メンツ)があってできない。しかし野党ならできる。自民党にとって野党の利点を生かせる絶好のチャンス。この機会を逃しては、上昇は困難であろう。
全国民へのコンテスト呼びかけとは、教えを乞(こ)うということだ。目上の人でも目下の者に「下問を恥じず」(『論語』公冶長(こうやちょう)篇)だ。
ここは謙虚に国民に教えを乞い、学ぶことである。『論語』子張(しちょう)篇に曰(いわ)く、「君子は、学びて以(もっ)て其(そ)の道を致(いた)す」と。(かじ のぶゆき)
青山ファーマーズマーケットで購入できる
しもたファームさんのフレッシュハーブティー
アンベベさんで購入できる時もあるとか?
しもたファームさんの切り干し大根も美味しかったなぁ
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ファームといえば
小文間の広大な土地に
ひまわり畑ができるかも・・・という情報あり
夏が楽しみな場所になりました
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小文間といえば
OMONMA TENTで『田島享央己個展』開催中 6月3日まで
取手ってアートな町なのだと改めて感じました
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アートだけじゃない
歴史を感じるまちなのです小文間歴史とアートツアーは迷子おばちゃんの取手生活放浪記へ
女の気持ち 旅立った娘 ~毎日新聞20120526~
今年になって、昨年の今ごろは、と思う日が多くなりました。
娘夫婦の隣に住むようになって3年がたったころ、幸せが足元から崩れ始めた。娘の胸に、がん細胞がすみついたのです。そして2年8カ月の闘病のかいもなく、私より先に逝ってしまいました。
東日本大震災が起きた昨年3月11日、娘は病院で抗がん剤の投与中でした。津波で多くの命が奪われたニュースを見て「私は生かされているのだから頑張って治療する」と、折れかけていた自分の心に言い聞かせていました。
その後、奇跡かと思うほど元気になり、暑かった夏も乗り越えました。
がんと共に生きていこうと抗がん剤を減らして漢方薬を併用し、完治は無理でも日常生活が少しでも楽になればと思っていたのに。がん細胞はリンパの流れに乗って暴れ始めたのです。
微熱が続くようになって、11月21日に7回目の入院。その前日に2人でお風呂に入り、小さくなった背中を流しました。「お母さん、私もうどうしていいか分からない」と2人で泣きました。
入院して3週間がたち、「今夜は泊まってください」と看護師さんから告げられました。一歩一歩天国への階段を上り始めていたのでしょう。12月12日の明け方に、私としっかり手を握り合って、静かに旅立っていったのです。
43歳の短い人生でした。丈夫な体に産んであげられなかった、それだけを悔いる母です。
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茨城県県版より
世界に一つのアート傘展 とりでアートギャラリーきらりで開催中