社会 西日本豪雨 岡山・真備町の小6・坂東さんが手記 「水が一気にきた」
毎日小学生新聞 2018年8月3日
7月の西日本豪雨で、大きな被害にあった岡山県倉敷市真備町に住む小学6年生で、毎日小学生新聞読者の坂東律彦さんが手記を寄せてくれました。2階がひざの高さまで水没した自宅に取り残され、ボートで救出されるまでを原稿用紙8枚に克明に記録しています。(後半を一部、省略しています)
平成30年7月7日、七夕なのに、目の前には、天の川ではなく、茶色の川が流れていました。
今から5年前、ぼくが小学1年生の時にも小田川がはんらんしかけたことがありました。でもその時はなにもありませんでした。だから、今回も大丈夫だと思っていました。
前日の6日は、朝から大雨警報が出て、小学校は休校でした。そんなに大雨ではなかったので、病院で薬をもらったりしていました。午後2時ごろには、近くの用水路が、はんらんしそうになっていました。でもぼくは、宿題をしたり、テレビを見たりしてふだんどおりにすごしていました。
お風呂に入ってねましたが、何度も携帯が鳴ったり放送が流れていたので、何度も目が覚めました。11時30分ごろには、総社の工場が爆発したりしました。地しんかと思いましたが、ちがいました。お父さんは近くの川の様子を見に行っていました。でも、ひなん場所が少なかったので、家にいることにしました。
7日の朝、6時ごろに水が一気に入ってきました。それと同時に床下しゅうのうから水がふき出しました。あわてて、近くにある大切な物だけ持って、2階にあがりました。水は、階段の1段目まで一気に来ました。そして、とつぜん電気が消えました。7時ごろ、119に電話しましたが、「順番に救助しているので待っていてください」と言われただけでした。ぼくは、怖くてベッドの上で泣いていました。すると、お母さんが、優しくなぐさめてくれました。
食べ物は、ペットボトルのお茶と水ようかんがありました。お母さんが「食べたら」と言ってくれましたが、ぼくはほしくありませんでした。
救助を待っている間は、テレビからの情報もないし、けいたい電話もなかなかつながらなくて、まったくどんなじょうきょうかわかりませんでした。そこで、お母さんが市役所に「みんな情報がほしいから、防災無線で今のじょうきょうを知らせてほしい。みんな、見通しが持てないから不安なんです」と電話しましたが、情報が流されることはありませんでした。
そのままお昼になりました。ぼくが持っていた手作りのラジオがあったので、お昼のニュースを聞きました。でも、電池がなくなったら困るので、それ以上聞くのはやめました。
あまりにも、救助に来てくれないのでもう1度119に電話をかけましたが、「うく物を持って待っとくように」と怒ったように言われただけでした。そこで、家の中からビニールのそりと、エアーベッドを出して来て、お父さんが、口で空気を入れてふくらませました。
それから、いつでもひなんできるように、リュックサックに3日分の服を入れました。そして、ぼくは、水にぬれてもいいように、お母さんの水着にきがえました。
それでも、救助に来てくれないので、今度は110に電話しました。でも「がんばってください」としか言われませんでした。
すると、近所の人が、となりの家に窓からとびうつって屋根の上に上がっていました。すると、雨がふってきました。小さい子どもたちはきょうふと寒さでふるえていました。
午後3時すぎ、県警のボートが見えました。それまでにも、ヘリコプターが上空を何度も飛んでいて、何度も手をふりましたが、救助には来てくれませんでした。でも、ボートの人は「奥の人から救助するけどいいですか」と聞いてくれました。「これで助かる」と思いました。
そして、自衛隊のボートが来て救助してくれました。その時には、2階のベランダからボートにのりうつれるくらい水が来ていました。それから、となりの団地の人を救助しながら、まび記念病院に行きました。病院についたら、先生たちがでむかえてくれて、「大丈夫ですよ一緒にがんばりましょう」と言ってくれました。
(中略)
病院は、2階近くまでしん水していて、電気も水も使えませんでした。物資もとどいていませんでした。
ぼくたちの近くには、にん婦さんもひなんしていました。
まび病院の4階から見る真備町は、一面海のようでした。まだまだ、お店の屋上で救助を待っている人もたくさんいました。
男の人は、2階からマットやふとんを運びあげました。
にぎやかな町 はいきょみたい
午後ごご7時じすぎ、だんだん暗くらくなってきました。そのころ、一人ひとり1個小こちいさいおにぎりとジュースが配くばられました。とても、ありがたかったしおいしかったです。
それからマットを2枚しいて3人で一緒にねました。
次の日、朝起きると水は2メートルぐらい減っていました。それまでは見えなかった車の屋根などが、見えてきました。
8時ごろ、パンを1個と水が1ぱい配られました。その後、一人1個ずつパンやゼリーも配られました。
それからにん婦さんや重しょうの人からボートで運ばれるようになりました。ぼくたちはまだまだだろうと思って散歩に行きました。すると、同級生に会いました。「小学生はひなんできるから準備をしといたらいいよ」と言われました。ぼくは体が大きいので小学生とは思われていなかったので、いそいで病院の人に言いに行きました。すると、「すぐに準備して待っといて」と言われました。その後すぐに呼ばれて、自衛隊のボートに乗って川辺橋の近くまで行きました。隊員の人はその日初めてボートをこいだそうです。愛知県から助けに来てくれました。「国のためというような大きなことではなくて、災害などで、人のことに役立つことがうれしい」と話してくれました。すごくかっこよかったです。
(中略)
ぼくが初めて真備町に入ったのは、13日でした。ぼくは、あんなににぎやかだった町がはいきょみたいになっていたのでショックでした。
律彦さんは今、近くのおばあさんの家で元気にしています。お父さんとお母さんは家の片付けを頑張っているそうです。