「野球に人生注いだ」木内幸男さんしのぶ企画展 茨城・取手駅ビル
企画展は入場無料。24日まで
東京の義兄 女の気持ち・匿名
毎日新聞 20210210
最後の所持金はたったの1905円だった。東京で1人暮らしをしていた義兄が亡くなった。39歳。残されたメモには「コロナ感染の疑いあり」の一文とともに実家の連絡先が記されていた。
義兄は中卒でとび職人だった。2020年の東京五輪を控え、建設ラッシュだったころは羽振りもよく、数年前、夫にかけてきた電話では「お前も東京へ来いよ。日当いいぞ」などと話していた。
そして今年。義兄は失業していたようだ。保険証もなく、病院に行くこともできなかったのだろう。発見されたとき、死後1週間ほど経過していた。自死であった。検視でのPCR検査の結果は陰性。肺炎だったそうだ。
「自殺者数」という数字の裏側に、一人一人の人生がある。部屋で1人で思い詰めた義兄の心中を思うと、胸がふさがる。義兄の、日に焼けた顔と豪快な笑い声を思い出す。なぜ、電話を1本かけてくれなかったのだろう。義兄の死からずっと、夫と私はそればかり考えている。
これを読んでいるすべての人に伝えたい。コロナにかかることも失業も、自己責任なんかじゃない、と。そして「困ったときは人に迷惑をかけてもいいんだよ」と。人に迷惑をかけずに生きられる人など、いないのだから。
ごめんなさい
毎日新聞 20210209
要介護だった母が、84歳で亡くなった。ここ2年ほどで急激に体調が悪化し、同居の私が世話をしていた。
とはいえ、私にできたのは買い物や簡単な食事、飲み物の用意、移動時の付き添いと介護、汚れものの洗濯、片付けや掃除程度。本当に大変な介護をされている方からすれば、取るに足らない作業だろうが、自分自身のことで精いっぱいだった私には、それでも大きな負担だった。
「しっかりしてくれよ」「何やってるんだよ!」
思い通りに動いてくれない母にいら立ち、怒り、感情を抑えられないまま何度もひどい言葉を浴びせてしまった。それを聞いた母の悲しそうな顔が忘れられない。
誰でも年を取って衰えれば、以前と同じようには暮らせなくなる。それが頭ではわかっていながら、私は現実を受け入れることができなかった。体力も気力も弱り、昔とは別人のようになってしまった母を前にして、私は戸惑い、混乱し、自分の都合だけで母を疎ましく感じていた。苦痛で体が自由にならず、本当につらい思いをしていたのは母のほうだったのに。
お母さん、最後までどうしようもないダメな息子ですみませんでした。優しかったあなたから受けた愛情や恩の100分の1も、私は返すことができませんでした。どうか向こうでは体のつらさから解放され、安らかにお過ごしください。
毎日新聞20210206
朝、吹雪の中を学校へ行く子どもたち。その姿を窓の外に見ながら「大変だねえ」と心の中でつぶやく。
このところ盛岡でも、いつにない大雪だ。ふと、幼いころのことを思い出した。当時の冬はこんな日など当たり前。あるいはもっと大変だったかもしれない。どんなにひどい雪であろうが、子どもたちは皆、せっせと学校に通ったものだ。それは昔も今も変わらない。
私は50代のころ、5年ほど新聞配達をして働いていた。そのときも私は天候について、さしてつらいだの嫌だの思いはしなかった。
「マイナス12度だぞーっ、気をつけろ!」
他紙を配達している人が叫んでいく。いてついた路面で滑って転ぶ。大雪でハンドルを取られ、新聞を前後に積んだバイクごと転倒したこともある。私自身、何度も怖い目に遭ったものだ。
今思えば、どちらかというと運動の苦手な私が、よく続けられたと思う。バイクの運転免許を取り、自転車から乗り換えられたのも新聞配達のおかげである。
あのころ、仲間が撮ってくれた写真がある。新聞をいっぱい積んだ販売店のバイクにまたがり、末娘のピンクのヘルメットをかぶった私は、笑顔だ。
配達から戻り帰宅すると、そのバイクは次に末娘が仕事に出かけるのに使う、という毎日だった。
東海第2 避難所1.8万人分不足 責任曖昧、ずさん算定 トイレ・倉庫も「居住」扱い
毎日新聞 20210131
日本原子力発電東海第2原発をめぐる広域避難計画で、茨城県内の避難所が2018年時点で約1万8000人分不足していた。施設のトイレや倉庫、ステージ、玄関ロビーまで避難者の居住スペースとして計算したためで、防災の専門家は「あまりにずさんだ」と批判する。計画策定のプロセスを検証した。