Archive for 6月 27th, 2011

亘理いちごっご

月曜日, 6月 27th, 2011

達成感があった1日は、↑

逆に集中力に欠け だらだらとした1日は、妙に↓

 

悩んだ時、相手の立場になって考えると大よその行動が決まる

決めかねている時は、自分が思うままに行動するか

 

午後3時半ごろから

保存用ミートソースの仕込みを開始した

家族の帰宅時間もちょっとずつずれ込み9時になっても夕食の支度が続く

こんな日に限って足が浮腫む

猪突猛進で突っ走っている方が疲れないって変?

 

被災されている人に暖かい食事と野菜いっぱいの食事を無料提供してきた

亘理いちごっごの馬場さんにエールを送ります

2ヶ月間借りていた亘理町蚕業産業会館での食事の提供は

期間限定で借りていたため6月25日が最終日だった

ただ今、次なる食で繋がれる場所探し中

キッチンカーで青空カフェはどうかしら?

いちごっごの企画に賛同された多くの人からの食材などの支援でまかなっている

時には避難所で残った食材をいただくこともあった

単に食の提供だけでなくコミュニティーとしての役割も担っているいちごっごスタッフ

自らも被災されたと言う馬場さんに元気を貰いました

具体的な協力ができないものかと思案中^ ^*

山吹の里伝説

月曜日, 6月 27th, 2011

日本料理 山富貴によれば ⇓

 室町時代、太田道灌は26歳という若さで江戸城主を努め、城内では兵学をおさめ、
戦術家のプロとして、また城づくりの名人としてその名を広めておりました。
その道灌が、鷹狩をするため、越生の里へ来た時のお話です。
この辺りでにわか雨にあい、道灌は蓑笠を借りようと、近くの農家に立ち寄りました。
すると中から少女が出てきて、黙って山吹の枝を一枝差し出したのです。
道灌は、この少女の無礼に腹を立てたのですが、実は少女の行動は、山吹の花にまつわる
古歌にちなんでのことでした。

七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき 「後拾遺集」

この歌には、山吹の花は七重にも八重にも咲くけれど、実が1つもならない花です。
私の家は貧しくてお貸しできる箕(み)は1つもないのです。という意味が込められていたのです。
城に戻ってこの歌の意味を調べた道灌は、自分の無知を恥じ、
それ以降は学問にも励み、文武両道を兼ね備えた名将となったのです。
このお話にまつわる山吹の里は当店に隣接しており、
復元されたあずま家が当時の面影を忍ばせております。

 

という故事にちなんで名付けられた公園が『山吹の里歴史公園』だ

でも、山吹の里は、豊島区高田1-18にも存在する

明治の末までこのあたりは山吹の咲き乱れる野原だったそうだ

面影橋のたもとには、観音像の石碑がある

山吹伝説・・他にもあるのかしら?

 

あるんですね 山吹の里伝説

荒川区町屋の泊船軒と言う珍しい名のお寺に山吹の塚碑がある

 

越生と言えば梅林を思い浮かべていたが、

武蔵野丘陵は^ ^*にとって未開発 とっても素敵なところだった

 

山吹の里

山吹の里

伝 山吹の里
    
     所在地 越生町西和田
 
 室町時代、太田道灌が川越の領主であったころの話である。道灌が父の道真を訪ねた折、この辺りでにわか雨にあったので、近くの農家に立ち寄り蓑を借りようとした。すると一人の少女が出てきて、だまって山吹の花を差し出した。
 道灌は山吹の花にちなんだ古歌、「七重八重花は咲けども山吹の 実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」が考えつかず、少女の思いが分からずに恥をかき、のち大いに学問にも励み、文武両道を兼ねた名将と言われるようになったのだと言う。この話は広く知られており、山吹の里と称するゆえんである。
 昭和三十七年に県指定旧跡となっている。
    
      昭和五十九年三月
山吹の里歴史公園

山吹の里歴史公園

山吹の里歴史公園

山吹の里歴史公園

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4月中〜下旬にかけ、約3000本のヤマブキの花が咲く頃が

本日3回忌だった故人が好きだった場所だったのかもしれない

 

山吹の里伝説・・・もし^ ^*がブロガーでなかったら

こんなに興味深く調べなかっただろうなぁ

ブログは、^ ^*の歴史なのかも

 

山吹の里公園に隣接している日本料理 山富貴

日本料理山富貴

日本料理山富貴

日本料理山富貴

日本料理山富貴

日本料理山富貴