茨城春秋 2011年7月5日(火)
小紙が創刊されたのは1891年のきょう7月5日。明治維新から24年、社会の風景と価値観が一変し、新しい秩序を模索して世の中が混沌(こんとん)としていた時代だ
そんな世相を背景に、創刊号が掲げた「発刊の趣旨」は県民を荒波に浮かぶ航海者に、小紙をその水先案内人に見立て、文明という港にたどり着くまでは倒れてもともに進み続けると宣言した
それから120年目の今年、先人も経験したことのない災禍が東日本を襲い、県内にも深い爪痕を残した。大震災と原発事故を境に社会の価値観は大きく揺らぎ、県民の心も暮らしも嵐の海を漂流する小舟のように揺れた
小紙も発行の危機に直面した。震災翌日から3日間は4ページに縮小した紙面づくりを余儀なくされた。戦後これほどの苦境に立たされたことはない
読者の皆さんにはご不便をお掛けしたが、「新聞が届くことがこんなにありがたいと思ったことはありません」(常陸大宮市、大森行男さん)といった胸に染みる声を数多く寄せていただいた
くしくも創刊号と同じ4ページの紙面。薄っぺらだが、荒海を漂う航海者と水先案内人の原点が凝縮された宝と自負している。(本)
デスク日誌 2011年7月5日(火)
あすを見据える120年
茨城新聞はきょう、120歳になった。紙齢4万1838号
▼長い歴史の数分の一にすぎないが、記者として紙面づくりに関わってきた。もともとはスポーツ記者志望。“就活”の結果、某スポーツ紙から内定をもらったが、一般紙に行きたくなり、故郷の茨城新聞社を急きょ受験した。自分を含め同期は3人で、記者になったのは1人。残ったのも1人
▼日立、水戸を経て、土浦には志願して来た。「茨城新聞百年史」によれば、社は1906年に土浦に出張所を設けた。こちらも105年
▼会社への帰属意識の低い“スチャラカ社員”だが、記事を通じて地域を良くし、新聞の評価を高めたいという気持ちは人一倍強い。次の100年とは言わず、あすの紙面が充実するよう、県南地域からいい記事を発信したい。(土浦つくば支社・仁平克幸)
多くの現場を歩き人々の声を聞き、紙面を通じ真実を「伝」えて下さい^ ^*