ニッポン密着:三セク・いすみ鉄道、自己負担で運転士訓練 中年の夢乗せて ~毎日新聞 20100823~
いすみ鉄道の車内で、運転席をみつめる吉井研治さん 千葉・房総半島を走る第三セクター鉄道「いすみ鉄道」が、訓練費用700万円の自己負担を条件に、4人の男性を運転士の訓練生として採用した。4人は夢の実現に向けた第一関門となる筆記試験を前に、最後の追い込みの真っ最中だ。経営難に直面し、自前で運転士を育てる余裕のない鉄道と、カネを払ってでも運転士になりたい男たち。それぞれが700万円にかけた思いは--。
夏の日差しを浴びながら、ムーミンのキャラクターをあしらった黄色い1両編成の列車が、小気味よい音を立てて線路を進む。
「このカーブの先に上り坂があって、右手に池があって」。日曜朝ののどかな列車内で、訓練生の吉井研治さん(51)=埼玉県志木市=は、運転席の向こうに真剣なまなざしを注いだ。週末ごとに千葉県いすみ市である学科講習への行き帰りは、気が付けばイメージトレーニングの場に。「まだ運転なんてできないのに、つい運転士の目線になる」と苦笑いする。
18歳で広島市から上京。私大獣医学科を卒業して、獣医師免許を取得した。動物の命を救おうと気負ったが、安楽死させることも多い現実が受け入れられず、オートバイ販売店を営む実家へ帰った。
店はその後、メーカー資本の販売会社に吸収され一社員の身に。それでも働き続けたのは、この仕事に誇りを持つ父の影響が強かった。しかし不況で事業は縮小。「これがおれがやりたかった仕事なのか」。どっと疲れた。
父の三回忌を終えた後、会社に退職する意思を伝えた。少し休むつもりだったが、考えを変えたのは今回の募集を見つけたからだ。
「50を過ぎ、後は下るだけだと思っていた。でも直接お客さんの笑顔に接し、時に怒られたり。そんなことを想像したら『まだやれる』と思えた」
家族は反対した。しかし、思いを伝えると妻は、こう言って背中を押してくれた。「あなたは30年間、仕事一筋で酒もたばこもやらなかった。それに月2万円使っていたとしたら、30年で720万円。出せないことはない」
「家族の前で『発車オーライ』なんて気恥ずかしいけど、いつかみんなを乗せて走りたい。ドライブの時みたいに、ブレーキが遅いなんて言われないようにしなきゃな」
別の訓練生の男性(42)=千葉県市川市=が、勤務するソフトウエア会社の上司に打ち明けたのは、採用から1カ月近くたった5月末。兼職の可能性を尋ねたところ、返事は「二者択一を」だった。
中学時代の夢は運転士。鉄道学校が前身の高校の運輸科を卒業した。国鉄の運転士を目指したが、解体論議に揺れ新規採用は停止。私鉄に就職を決める友人を横目に「国鉄じゃなきゃ意味がない」とあきらめたはずだった。
09年度末の累積赤字は1億8490万円と、存廃も論議されるいすみ鉄道。男性は手取り年収500万円が、3分の1になる可能性もある。運転士になっても運賃回収や土産販売、駅舎の掃除もしなければならない。だが、「全体の一部しか見えない今の仕事」と正反対だ。だからこそ、自分のやる気が会社の将来に直結すると魅力を感じた。
田園を走り抜けるいすみ鉄道 いすみ鉄道の運転士は現在11人。平均年齢は50代後半と高年齢化が進んでいる。運転士の育成が迫られているが、自社養成は困難。そこで、英航空会社の部長だった鳥塚亮社長(50)が、航空業界で取り入れられていた訓練費用の自己負担制度を参考に発案した。
6人の応募があり、吉井さんと市川市の男性、40代の男性2人の4人が採用された。2人のうち1人は広島から千葉へ引っ越し、もう1人は勤務するバス会社を辞め、訓練に専念する。
4人は、9月に国が実施する筆記試験を通過すれば次は12月の実技試験。それに合格し社内の運行訓練を経れば、来夏には独り立ちする予定だ。鳥塚社長も国鉄の受験ができなかった世代。4人の夢は自分の夢と重なる。「700万円は彼らの本気度。おじさんたちの夢とローカル線再生の希望、その両方が込められているんです」
■経営難で運転士養成できず
第三セクター鉄道は、旧国鉄の廃線などに伴って各地で発足した。全国の35社が加盟する三セク鉄道等協議会(東京)によると、09年度の経営実績が黒字だったのはわずか5社。いずれも乗客減少や老朽化による修繕費用の増大に苦しんでおり、費用と時間のかかる運転士養成は悩みの種だ。
秋田内陸縦貫鉄道(北秋田市)は正規の運転士19人では足りず、60代の嘱託社員1人と月10日程度勤務のパート社員5人に頼っているが、10年以上、運転士の育成をしていない。松橋勝利・総務企画課長は「新規採用して独り立ちさせるまでの体力はない」と話している。
明知(あけち)鉄道(岐阜県恵那市)も運転士10人中6人が60代と高齢化が進み、最高齢の66歳の運転士には退職を延期してもらっている状況だ。09年には開業以来初めて、運転士として養成するため2人を採用。今年の8月下旬にも2人を募集する予定だ。
◇いすみ鉄道
国鉄木原線の廃線方針に伴い88年、千葉県と沿線自治体などが出資して開業した。大原駅-上総中野駅間26・8キロを結ぶ(全14駅)。本社は同県大多喜町。もなかやまんじゅうなどのお土産を開発するなどあの手この手の経営再建に取り組んでおり、今年4~6月は輸送人員、売店の売り上げともに前年同期比で増加した。車両はいずれもディーゼル車。